島田正路の言霊:言霊と古事記③

 以上のようにその昔、日本の天皇として政治の任にある人が必ず体得しそれによって政治を運営するべき言霊の原理が、人間の自覚から離れ、伊勢神宮の内宮に天照大御神として祭祀され、原理そのものは日本人の意識から隠没したのですが、数千年の後、言霊の原理が再び日本人の脳裏に甦る時に備えて巧妙な仕掛けが行われたのでした。それは言霊の理想構造図すなわち天照大御神を祀る伊勢神宮の内宮の本殿を、一度言霊という意識の下に見るならば、まさに一見してその言霊構造が明らかになるような構造に建造したことです。その作り方を今に〝唯一神明造り〟と伝えています。唯一つの神が明らかになる造りということです。
 伊勢神宮本殿の構造と言霊図とのみごとな照合のことについては後に譲ることにしまして、ここではただひとつ構造上最も重要なことをお話するに留めます。それは伊勢神宮におきまして、〝秘中の秘〟といわれます本殿中央の床下に祀られる忌柱または真柱のことであります。それは大きさ縦横約五寸の白木の柱で、下二尺は地表より下に埋められた形で建てられています。これは何を意味しているのでしょうか。言霊を知り、この変遷の意味を了解するならば一見して天照大御神という神の言霊の意味が明らかにされます。真柱の五尺の長さは明らかに神道で天之御柱と称える言霊アオウエイ五母音を表徴します。この五母音の重畳こそ神の本体です。しかも下二尺が地表下にあるということは、言霊原理が隠没し神と祀られている期間は、社会にアオウである宗教・芸術・学問・産業は栄えても、下二段のエイすなわち言霊原理イとその原理に則る道徳・政治エはこの世に実際に行われることはない、という呪示であります。
 隠された言霊の原理を他の建造物や宮中での諸々の儀式の形式(例えば立太子の時の壺切の儀)等で呪示したものは多数存在しますが、その説明は他の機会に譲ることといたします。
 以上言霊原理の隠没の時の状況についてお話しました。そこでついでに二千年間完全に埋没していたその原理がどのようにしてこの社会に再び甦ってきたかを付け加えておきましょう。宮中において三種の神器の同床共殿の制度の廃止以来、日本の国家は言霊エではなく言霊ウの権力による支配の下で、決して平和至福の社会とは言えない状態が続いたのでした。それはまた全世界についても同じことが言えるでしょう。けれども三千年以前に決定された方策のことく近代になって隠没していた言霊五十音の原理がようやく社会の表面意識の上に甦ることとなります。その隠没の二千年の間にも言霊の原理の存在に気付いた日本人はいました。平安時代以降では菅原道真・最澄・空海・日蓮等々の人々がそれです。遺されたそれらの人々の著書を言霊の立場から読めば一目瞭然です。しかしこれらの人々はその存在に気付いても決して明らさまに言霊を説いてはいません。存在を呪示しただけでした。その時代々々が言霊を世に出す時ではないことを察知していたからでありましょう。そして言霊研究の先鞭をつけられたのは明治天皇でありました。天皇に一条家より輿入れされた皇后のお道具の中に、三十一文字の敷島の道・言の葉の誠の道である和歌の道の奥義書として言霊の手引書があったと聞いています。天皇は皇后と共に言霊原理研究の手探りを始められたのです。そしてその勉強のお相手をしたのが天皇の書道の先生であった山腰家当主であり、その子の山腰明将氏は著書の言霊の師である小笠原孝次氏の先生でありました。明治天皇のお詠みになった言霊・言の葉の誠の道すなわち五十城島(敷島)の道の関する御製が多数ありますが、ここにそのうちの二、三首を挙げます。この御製によっても、天皇が、日本が日本であることの真実の道である和歌の奥義をどれほど熱望されたか、よく推察されます。

  聞き知るはいつの世ならむ敷島の大和言葉の高き調べを
  しるべする人をうれしく見出てけり我が言の葉の道の行手に
  天地を動かすはかり言の葉の誠の道をきはめてしかな

 こうして言霊の研究は次第に進み、著書の師であった小笠原孝次氏の時になって、それまでは抽象的概念の研究のみに終始していた研究から抜け出し、実際にこの世の中に呼吸している生きた人間の精神の究極構造を示す原理として言霊の学問体系を確立したのです。昔の神話が現実の歴史創造の原理として徐々に甦り始めたのです。
 言霊の研究が二千年の闇を破って始められた明治時代は、ちょうど物質科学において人類が初めて物質の先験構造である原子核内へ一歩研究を踏み込んだ時でもあるということは、私達にとって一つの重大な歴史的示唆を与えるではありませんか。
 この著に接して言霊の意義に感銘を受けられた方は、もし手に入れられるならば私の言霊の師である故小笠原孝次氏の数種の言霊に関する書物をお読み頂き、言霊の理解をさらに深められることをお奨めします。