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言霊について

言霊

神とは五十音言霊。

言霊とは人間の心を解明した学問です。本来どこの国の言葉にもあります。しかし日本語ほど体系だてられていません。将来日本人の意識に蘇らさせる為に古事記が編纂されました。そしてその神話の部分は言霊の手引書になっているのです。
だから普通に読んでも分りません。
明治天皇の学習相手を務めた人たち(明治天皇→山腰弘道→山腰明将→小笠原孝次→島田正路へ)の研究によって本来の読み方が明らかになりました。その立場から書かれた本が島田正路氏の「古事記と言霊」です。
豊かな物質文明を言霊の原理によって見直し、平和・互助の世にすることが日本人の使命なのです。

はじめに

「コトタマ」とは日本語の起源なのです。
私達は幼い時、小学校でアイウエオ五十音図を習います。この誰でも知っている五十音図ですが、向かって右の母音が上からアイウエオの順で並び、横の上段が右からアカサタナハマヤラワの順で並んでいるのは何故か、と質問されたら、正確にその理由を答えられる日本人は何人いるのでしょうか。春に先駆けて咲く梅の花を何故「うめ」というのでしょうか。春爛漫と咲き誇る花に桜と名付けたのは何故でしょうか。
「言葉は社会的な約束事だ」などとよく言います。ある時代、ある処で、ある人が偶然に名付けた物事の名前が、次第に世の中に広まり社会の習慣となり約束事として後の世まで伝えられて来た、と考えられて来ました。勿論、そういう言葉もありましょう。けれど日本の古代から使われて来た日本語はそうして出来たのではありません。
梅の木は「うめ」でなければならない理由から「うめ」と呼ばれたのです。桜は「さくら」でなければならない理由があります。今使われている五十音図にしても、母音がアイウエオと並び上段がアカサタナハマヤラワと並ばなければならない確乎としたわけがあるのです。以上の様なことにお答えしようとして日本語の奥深く分け入って調べて行きますと、最後に「コトタマ」に行き着くことになります。
「コトタマ」の話は、日本人がとうの昔に忘れ去ってしまった日本の文化の起源や日本語の意味を私たちに思い出させてくれることになりましょう。

日本語の起源

今から数年前、東京で「日本語の起源」に関する研究会が開催されました。日本はもとより東洋、中近東、西洋から大勢の研究者が集まり、十日間にわたり熱心な討論が行われました。言語学・比較言語学・文化類型学・歴史学その他色々な分科会に別れた討論、全体総会など大掛かりな研究会でした。
研究会が終わり、新聞紙上に発表された討論の結論は「不明」ということでした。日本語の起源は現在の学問の研究の範囲では分からないのだ、というのが結論だったのです。世界の英知を集めた研究会にも拘わらず日本語の起源が何故分からないのでしょうか。
普通一つの民族の言葉の起源を研究する場合、大きく別けて二つの方法が考えられます。その一つは一つの民族の言葉に中から同じ単音が使われている言葉、例えば田、滝、狸、竹、…等「た」の音の入っている言葉を集め、その中の「た」の音の共通の意味を捜し出して行く方法です。この方法で五十音の一つ一つがどういう場合に使われるか、によってその民族の言葉が作られて来た法則を見つけることが出来る、という考え方です。
もう一つの方法は比較言語学と言われるやり方です。歴史的に関係が深いと思われる国々の言葉の中から発音が同一か、または非常に似通った発音の言葉を見つけ出し、その意味内容の比較によって民族の言葉の起源を探る方法です。
現代の言語学が用いている方法…多くの共通点を持つ言葉を集め、その比較検討から言葉の起源を捜し出す、いわゆる帰納的な方法、によって日本の言葉は決してその起源を探す事は出来ないでしょう。そうは言っても日本語に法則がないわけではありません。それどころか、日本語ほど厳密な法則によって作られている言語は世界中にないと言っても過言ではないほど、日本語には厳密な法則があるのです。ただ現代の言語学や心理学等々では決して到達することが出来ない人間の心の深部の真相・法則に従って作られているのです。その法則のことを「コトタマ」と言うのです。

日本的なもの

日本文化の国際化の波はますます大きくなるでしょう。と同時に純粋に日本的なものを求める風潮も起っています。茶道・華道から能・歌舞伎は盛んです。和服を着る人は一時より減ったようですが、結婚式でお婿さんの羽織・袴、お嫁さんの島田髪に振袖や打ち掛けの姿をよく見かけます。その他和食や国技の相撲等、日本的な文化も衰えてはいません。
しかし、これらが日本的かと思われるものも、そう遠い昔からあったものではないようです。その起源は古いものでも高々千年位、その地茶道などは精々四百年位しか経っていないのです。千二百年以上前から日本人はこの国土に住んでいたのですから、日本固有のもっと日本的なものがある筈ではないでしょうか。
そうです。あるのです。それは私たちが日常使っている日本語です。日本語ほど日本的なものはありません。
人間はある考え、ある出来事を他人に伝える時に言葉を使います。言葉は確かに心の伝達手段です。その出来事や考えなどが珍しかったり、世の中に重大な関係がある事だったりすると、人から人へ、また人へと伝達されて社会全体へ広がります。いわゆる口コミです。
人はしゃべっている時言葉を使います。それだけではありません。まだ言葉にならず、頭の中で考えている時も言葉で考えています。頭の中で無言の言葉が駆け回っているのです。また考えがまとまり、何か行動を起こす時も、言葉として口に出していない時も、手や足や体は頭の中の無言の言葉に従って動くます。考えている時も、しゃべっている時も、しゃべらずに体を動かし行動している時も、人間は全て言葉によっています。としたら言葉とは人間の生活の全てなのだ、ということが出来るのではないでしょうか。
さてその日本語はどのようにして作られたのでしょうか。何によって作られたのでしょうか。そこに「コトタマ」が登場します。日本語は「コトタマ」によって作られました。そして日本人は「コトタマ」によって生きているのです。いや、広い意味では世界の人々全部が「コトタマ」で生きている、ということが出来ます。

「コトタマ」とは

目を開いて目前のものを見ましょう。紙があり、鉛筆がみえます。本があります。それを乗せている机があります。それからそれへと視線を移しますと、壁・窓・カーテン・サッシュが目につきます。窓を開けると、木の緑が眼に飛び込んで来ます。街灯が立っていて電線があり、隣の家が見えます。その上を青い空が広がっています。夜ともなれば月が出て、星が瞬いているのが見えることでしょう。星の向こうにまた星があり、そのまた向うには…果てしない宇宙が広がっています。
このように目に見える宇宙は、それを見ている自分の外にある物質的宇宙です。この宇宙の中には多種多様、全く様々な物体が存在しています。ミクロのものからマクロのものまへ、原子・分子・細胞・細菌から地球、星、太陽、銀河系宇宙へ、まさに無数の出来事が存在しています。
 さてここで、窓を閉じ、自分の椅子に座って静かに眼を閉じましょう。何も見えなくなると、先ず今まで見ていた外界のものが思い出されて来るでしょう。外は良い天気で太陽の光がまぶしかった。木々の緑はもう春を告げていたな、等々。これは記憶という心の出来事です。その自分の外に見たものの記憶以外のこと、「ああ、少々腹が減って来たな。もうお昼だろう」「昼食は何がでるかな」…から「戦争の結果はどうかな」「選挙では誰が勝つのか」等々、思わぬ方向に発展し際限なく広がります。
このように心の中の出来事・現象が起る場所、それはまた思い付きや想像によって何処までも広がります。思いが何処までも広がる世界、これは物質宇宙に対して心の宇宙ということが出来ます。そして人間の肉体は物質宇宙の中に動いています。人間の心は心の宇宙の中に生きる、ということが出来るでしょう。
今から三千年以上昔、東洋の古代科学である錬丹還金術や本草学・東洋医学などが発見されていたことが記録に残っています。また戦争の武器としても、石器より銅の剣が銅より鉄の剣が有利です。この理由から古代科学の研究が進んで来たことでしょう。
近代になって物質科学の発達は目覚しいものがあります。物質はもうこれ以上分割出来ない処まで分析して物質の元素や分子を発見しなした。二十世紀に入って興った原子物理学は原子の核の内部に研究のメスを入れ、物質の究極の構造を明らかにしようとしています。原子核内のエネルギーの開放に成功し、原子爆弾が広島・長崎に落とされて第二次世界大戦は終わりました。今や世界の各地で何百という数に原子力発電が稼動しています。近代科学はこの原子エネルギーの他に、バイオテクノロジーとか、超伝導とか、情報分野などに昔から思えば夢のような成果を挙げ、世の中は便利すぎる程便利になりました。
人類は数千年以前から「物とは何であるか」に疑問に一応の答を出せるまで科学を進歩させたのでした。自然の環境の下で存在する物質元素九十数個、人工的に作り出した環境の下で発見される元素を加えると百数十個の元素が確認されています。
それだけではありません。科学はこの宇宙の中に存在している種々雑多の物質を構成している究極の要素である元素を全て明らかにしたばかりでなく、その元素の壁を打ち破って「物」そのものを形作っている、目に見えない部分、物質の先見的な構造である電子から陽子・中性子等々の原子原子核内まで解明したのです。科学が物質の先天と後天の全内容を全て明らかにする日も間近いことでしょう。

文明のはじまり

コトタマのことを単に一音で霊と呼ぶ事もあります。現代でも神社で御神体を納める容器を樋代または「みひしろ」といいます。樋代の樋は霊の字が何時の時代か変化したものです。コトタマを自分の心に自覚した人を霊を知る人の意味で霊知り(聖)と呼びます。言葉の原理を知っている人という意味です。漢字でも聖の字は耳と口の王と書いてあるでしょう。
アジアの高原地帯で悠久の年月をかけた研究の末に、人間の心とは如何なるものかの全部を解明した聖(霊知り)の集団は、ある時が来て研究の計画を更に一歩進めることにしました。それは発見した心と言葉の原理に則って、その原理がそのまま生かされる人間社会を建設しよう、という計画です。仲間の中から選ばれた霊知りの集団が、社会を作るのにふさわしい気候温和な処を求めて高原地帯から下がって行ったのです。
霊知りの集団は多分今のシルクロードを通り、中国から朝鮮半島に歩を進めました。その経路ははっきりしませんが、最終的に「ここ」と定住を決定した処は明らかです。私達の住む日本列島でありました。この霊知りの集団こそ私達の先祖であります。日本の昔の本である古事記や日本書記の中の神話には、この集団の日本列島への渡来を「天孫降臨」と呼んでいます。
霊知りの集団がこの日本列島で活動を開始したのは何時頃のことだったでしょうか。正確に断定することは出来ません。ただ現代の歴史学や考古学が考えるより更にずっと遠い昔、今より五千年以上前の時代であったことは間違いないようです。
私達日本人の先祖がこの国土に来て先ず最初に手を付けた仕事は何だったでしょう。それはコトタマの原理に則って物や事柄に名前を付けることでした。心の方面から見た宇宙の要素の内容と音が結び付いた言霊のことを知った人々が、物事の姿や成り立ち、受ける感じ等を吟味して名前を付けたのですから、その名前はその物や事項の真実の姿をぴったりと表現しています。名前を聞けばその物の真実の姿(実相)は明らかに分かります。古代日本語とはそのような言葉として作られて行ったのです。
次ぎのコトタマの原理に則って文字が作られました。現代神代文字といわれる文字であります。昔の言葉で「ヒレ」と申します。漢字を当てはめますと霊顕ということになりましょうか。文字とは言葉が見えるように表現されたものです。神代文字である「ヒレ」はコトタマの一つ一つの内容が図形として理解されるよう作られていました。
この神代文字についても、一般には後世の偽作だという研究者が多いようです。けれどコトタマの原理を知った上で神代文字を見ると、極めて原理に忠実な表現として文字が作られているのが分かります。神代文字の存在ははっきりとしています。日本でも古い神社の一つである奈良県天理市にある石上神宮に伝わる十種の神宝の中の峰の比礼・百足の比礼。種々物の比礼といわれるのは神代文字のことであります。
文字と並んで数という考えが普及して行きました。数とは物事が変化して行く時に出来る考え方です。一つの状態から違った状態に変化が起った時、一から二への変化という数の考えが生まれます。変化が全くない状態の処には数という考えは起りません。昔の日本人の先祖は一個のコトタマから別のコトタマへの移り変りの実相の変化を表して数霊と呼びました。
現代科学の最先端の技術であるコンピューターは、一般に世の中で使われている十進法の数計算を二進法に変えたことから始まったといわれます。このことは「数」という考え方が初めて考えられた数霊の時代に帰った、ということが出来ます。コトタマとカズタマとコンピューター、最も古いものと最も新しい技術との関係という興味或る問題が考えられます。
コトタマの原理から物事の名前が出来ました。また数の考え方も定まりました。次ぎの目標はこれらコトタマとカズタマと物事の名前がそのまま応用されて歪むことのない社会制度の確立です。社会制度を作る事です。
このようにして今から少なくも五千年以上昔、この日本列島の上で言葉と数と社会制度がコトタマの原理を基礎として創造されました。これが人類の文明のはじまりということが出来ましょう。その文明の始まりはコトタマの原理によっているのです。私達日本人が日常使っている日本語の起源とは、この事を措いては考えることが出来ません。
コトタマこそ人類の文明の始めてあり、その原理そのままに作られたのが日本語なのです。
言葉は文明の母、数は文明の父、といわれます。昔の言葉を聞いたことのある第二次大戦前に詳しい年代の人は御存じでありましょうが、昔の言葉で母親のことをいろは(妣)父親のことをかぞ(数)と呼びました。人間の心の構造に則ったコトタマの原理から命名された古代の日本語の一つ一つであります。

霊の本

日本民族の起源や日本国家の建国の目的という立場から考えるならば、日本本来の国名は『霊の本』です。奇妙に聞こえるかも知れませんが、これが本当です。日本人の遠い祖先は人間の心とは何かの問題に取り組み、長い年月の研究の末に、人間の精神構造を解明して、その要素のそれぞれとアイウエオ五十音の単音を結びつけて、その一つ一つを『コトタマ』と名づけました。またコトタマ(言霊)のことを単に霊とも呼びました。
人間の心は五十個のコトタマ即ち霊(ヒ)で構成されています。人とは霊が留まる、の意味です。日本人の祖先はこの五十個のコトタマを結ぶことによって物事の真実の名をつけて行きました。心の究極の要素を結合して作られた名前ですから、その名前は真実の姿をそのまま表した名前です。コトタマが分かっていれば物事の名前そのものを他の考え(概念)で説明する必要のない言葉です。これが私達日本人の言葉、日本語であります。
人間の心が五十個のコトタマで構成されている、といいましても、それは日本人だけのことではありません。世界中の国々の人達の心も皆同様です。国家の区別も人種の区別もありません。ただし、人間の心の要素であるコトタマをそのまま組み合わせ、コトタマの原理・法則に従って作られた言葉は、世界中で私達日本人の言葉の基礎になっている古代日本語唯一つしかないのです。ですから日本の国は『コトタマの幸はう国』と呼ばれたのです。他の国の言葉にはコトタマの原理を全部生かしたものはないのです。
以上日本の国の名の起源についてお話ししました。
日本語の基本はアイウエオ五十音です。その中にカサタハの四行に点々がついて濁音となります。またハ行のハヒフヘホに丸がついてパピプペポの半濁音となります。
極めて大雑把に言って、コトタマの原理からは、現れ出る現象そのものを清音で示し、現われ出て来てしまったもの(完了形)を濁音で示します。また昔、言葉のことを単に『ハ』といいました。言葉として表わされる瞬間を示す音としてパピプペポが使われたのです。電灯はパッと灯り、ピアノはポンと鳴ります。ですから日本の国名は、日本が現在あるもの、として語られる時には『にほん』が正しいでしょう。または日本がこれから発展して新しい国として建設されようとしている、という気持ちでなら『にっぽん』と呼んで然るべきでしょう。

コトタマの原理

人間の心が五十個のコトタマによって構成されている、と前に書きました。それなら心はその五十個のコトタマによってどんな風に構成されているのでしょうか。心の中に五十個のコトタマが唯バラバラに散らばっているわけではありません。心を構成している五十個のコトタマはしっかりした構造を持ち、その構造のそれぞれ一定した動き方によって色々な心の現象を生んで行きます。
先ず物質の構造について考えてみましょう。物には形があります。色・堅さ・固体・液体・気体の区別があります。それら種々雑多のものを一つ一つ分析して行き、物の本質とは何か、と考えて行くと物質の分子にまで到達します。その物(例えば石、水、木など)を構成している最終的な単位です。それ以上分析すれば、そのものでなくなってしまうものです。
物そのものでなくなってしまう事にかまわず更に分析して行くとしましょう。するとその物の分子を構成している元素の原子が現れます。水の一分子は水素原子二個と酸素原子一個の結合で出来ています。現在自然の状態で宇宙に存在する元素は九十数種、人為的に特殊な装置の下で発見された元素を加えると百数十種の元素がある、ということです。元素は物質の最終単位という言が出来ましょう。
科学はその元素の原子の内部に更に研究のメスを進めました。そして物質というものを構成している先験的な内容…電子・原子核・陽子・中性子・その他種々の核子等を発見して言ったのです。これらか物質的な現象を生ずる以前の先験的構造と言うものです。先見的な要素は人間の感覚で直接に捉えることの出来ないものです。唯それによって何か現象が起こされた時、初めてその存在が確かめられます。それに対し物質の元素の原子によって構成されたこの世に存在する種々の物は後天的な存在ということができます。五官感覚によって捉えられる存在です。
物質を構成している要素の先天と後天があるように、人間の心の要素にも先天と後天があります。頭の中で何かを考えているけど、それがまだ定まった形や内容となって来ない間、これが先験的な部分です。古代の日本人の先祖は苦心の結果、この心の先験の構造を明らかにしました。それによると心の先験の部分は十七個のコトタマで構成されています。そして心の後天的要素…何らかの心の現象として現れたものの要素としてのコトタマは三十三個であります。先天十七個、後天三十三個合計五十個のコトタマが心の全ての要素です。

50音言霊とその区分

人間の心が五十個のコトタマから成り立っていることを発見した日本人の先祖は、その五十個のコトタマを合理的に並べて人間の心を表そうと工夫しました。そして平面的な五十音図を作ったのです。現代私達が小学校で教えられるアイウエオ五十音図もその一つであります。実はこのアイウエオ五十音図の他に四通りの五十音図が考案されました。
五十音図は五個の母音、五個の半母音、八個の父音、三十二個の子音から構成されていることになります。

心の構造

母音

先ず母音から始めることにします。
 秋から冬の良く晴れた日、ビルの屋上に上って仰向けになって空を見上げた経験をお持ちでしょうか。お持ちでない方は想像して下さい。仰ぎ見た空は一点の雲もないので、眼に入るのはただ一面の澄んだ青い空だけです。じっと見つめると、その澄んだ底知れぬ広さと大きさに畏敬の念におそわれます。それでもひるまないで、じっと見つめていると、すーっと自我の意識が消えてしまう時があります。
 人は自分以外のものを見たり感じたりすることによってそれを見ている自分の存在を意識するものです。澄んだ一色の空を見つめて他を感じる何物もない時、自我の意識は次第に消えて行きます。ただ自我意識が消えるだけでなく、その内に自分がだんだん大空の方に持ち上げられ、吸い込まれて行く感じになります。まるで宇宙と同化して一体となってしまうような感じです。
 以上のことを心にとめておいて、今度は目を閉じます。一色の青い空も何も見えません。思いを内に向けると、心の中に色々な記憶、空想、感情が起っては消えていきます。それは際限がありません。若し今、それらの思いや感情を一時ストップして起らなくしたとすると、どうなるでしょう。空を見上げていた時と同じように、自我は自分の存在を確かめるよすがを失って、自我意識は消えていくでしょう。消えると同時に広い広い心の宇宙と一体となることを体験出来るはずです。
 眠ったり、または何かに驚いたり感動したりした時意外、意識がしっかり覚めている時には自我がなくなることは滅多にありません。現実に体験しようとするなら、宗教の修行によるより方法がないかも知れません。現に仏教の禅宗の坊さんはその心の宇宙…これを空といいます…を求めて一生座禅に励んでいます。心の中が空っぽになると何が分かることになるでしょうか。今迄自我だとか頭脳組織だとか思っていた自分の心の本体は、実は宇宙そのものだ、ということが分かって来ます。自分が考えていること、今迄自分が考えていたこと、すべてが実は心の宇宙が考えていたのだ、ということが分かるのです。自分の心の出来事が同時に心の宇宙そのものの現象であることです。心の出来事が宇宙から現れて来ることが分かります。

ウの宇宙

 赤ちゃんは母親の胎内から生まれ出て、何も教えられないのにお乳を飲みます。乳房を吸います。これは生来人間に備わった欲望本能の現れです。この欲望の出て来る根元の宇宙に母音のウと名付けたのです。このウと名付けられた欲望の現れ出て来る元の宇宙、これをコトタマのウと呼びます。字を分かり易くするために今からコトタマを言霊と書く事にします。言(コト・言葉)はウです。霊(たま・内容)は欲望が出て来る元の宇宙のことです。これを一緒にして言霊ウと呼びます。

オの宇宙

 人は生まれて次第に成長し、物心がついてきますと、自分の見たこと、聞いたことを振り返って考えて、その経験したことをどんな順序で繰り返せば何時も同じ結果を手にすることが出来るか、を思考するようになります。この記憶とその整理の働きが出て来る元の宇宙を母音オの宇宙(言霊オ)と名付けました。この働きが高度になったものが学問であり、科学と呼ばれるものです。

アの宇宙

 この宇宙から発想して来るのは人間の喜怒哀楽の感情です。純粋な愛の世界でもあります。この感情が出て来る元の宇宙を言霊アといいます。この世界は言霊ウの欲望とも言霊オの経験知とも趣を全く異にした世界です。

エの宇宙

今までに挙げました言霊ウ・オ・アのそれぞれの宇宙から現れて来る欲望、記憶、感情は人の心の中で時には相争い、また時には協調したりします。これら三つの性能は常に勝手に自己主張して心に葛藤が起きます。この時、人は今どのような生き方をすればよいか、の選択を迫られます。感情のおもむくままに進むか、過去の経験を生かすか、それとも欲望を先にするか。さあ、どうしよう。それらをどんな按配で選択したら良いか、という知恵である実践知が出て来る元の宇宙、これをエの宇宙、言霊エと呼びます。

人が「えらぶ」(選)働きが出て来る元の宇宙であります。この言霊エからの働きが社会的なものになったのが道徳と政治活動ということが出来ます。

イの宇宙

この宇宙は今迄説明して来たウオアイの四つの次元と違い、説明し難い宇宙なのです。それを敢えて説明すると次のようになります。
言霊ウオアエの四つの次元の宇宙を縁の下の力持ちとなって支え、動かし、更にそれぞれの現象を言葉として表現するところの、人間の作り出す意思の働きが出て来る元の宇宙、とでも言ったら良いでしょうか。人間はこの生きる意志があって初めて他の欲望も経験知も感情も実践知も働くことが出来る、ということです。人間が生きる、居る、とはそういうことなのです。人が生きるための最高位の性能です。

半母音

母音のアイウエオの言霊が見る方の主体の五つの次元の宇宙とすると、半母音ワヲウヱヰは見られる方の側の客体の五次元の宇宙ということになります。母音と半母音とは自と他、主体と客体、出発点と終着点、吾と汝といった関係です。(古代大和言葉では吾をア、汝をワと呼びました)母音の言霊も半母音の言霊も精神の先天的なものですから、それから現象を生み出しはしますが、それ自体は決して現象として現れることはありません。

心の先天構造

人間の心は十七個の言霊の先天部分と三十三個の言霊の後天部分、計五十個の言霊で構成されている。その十七個の言霊で出来ている先天部分はどんな構造をしているのか。
先天部分ということは、勿論現象としてはそれ自体は現れない部分のことですから、その中に意識を入り込ませて研究するわけには行きません。現象となる前の世界を現象となって現れて来た意識の眼で見ることは不可能です。それなら我々の先祖はどんな方法で研究したのでしょうか。
まだ現象として現れない先天の構造を明らかにする方法は唯一つしかありません。それは現在の原子物理学がやっているように、大きな加速装置を使って原子核内の要素(と思われるもの)を高速で動かし、それを特殊な感光装置に衝突させ、そこで観察される種々雑多な現象の中から推理して行くことによって先天の構造を次第に組立てて行くことです。その推理と感光装置の中で起る種々の現象との間に一つの矛盾もなければ、その推理は正当なものとなります。
数千年の昔、心の構造を明らかにした私達の先祖も同様な方法を自分の心に適用したに違いありません。研究者自身の心の中に起る色々な出来事、感情・経験を持ち合って、その無数の現象を生む元の世界の構造を探って行ったのです。心の働きは機械装置によって加速することは出来ません。その代わり古代の人々は心を空にすることを覚えたのでしょう。現象を生んで行く元の心の宇宙を純粋に見ることによって先入観のない観察の仕方を獲得したことでしよう。現代人はこのような心を「明るい心」「率直な心」と呼んでいるところの心の持ち方です。万葉集に載せられている数々の歌の中に、この「明るい心」を汲み取ることが出来ます。
心の先天構造とは、それを構成する言霊は十七個、五段階の構造を持っています。この先天の構造を太古。私達の先祖は天津磐境と名付けました。天津とは現象界に現れない先天性の意であり、磐境とは五つの(い)言葉(は)の段階(さか)ということであります。この五段階・十七個の言霊が活動することによって無数の色々な心の現象が生み出されて行くのであります。

思考のはじまり

人が何か思い考えようとする時、頭脳内で先ず何が起るかを言霊で示したのが前項の天津磐境の構造です。しかしただ結論としての構造図を見ただけでは何のことだかお分かり頂けないかもしれません。そこで説明が必要なのですが、もともと先天と言われて、人間の意識では直接に捉えることが出来ない部分に関することですので、説明はともすると難解な用語を使い勝ちになります。今はそうなることを避けるために一つの例を引いて説明することにします。
思考が未だ何も始まらない時、それは空々漠々たる心の宇宙が広がっているばかりです。それは丁度夢も見ずに眠っている時に似ています。空漠たる宇宙に思考が始まります。それは眠りから目を覚めようとする時に似ていると言うことが出来ましょう。そこで人が眠りから身を覚ます状態を例にして思考の始まる時の先天構造の働きを説明しましょう。前の章に言霊で示しました先天構造の図を見ながらお読み頂きますと、理解し易いと思います。
朝、深い眠りから目が覚めます。まだ意識が完全には覚めないでモーローとしています。何もかもはっきりとはせず、それでも何かがあるような、あり始めるような感じの時、両手を伸ばしてノビをします。思わず自然に口に出る声は「ウー」です。意識が覚める初めに何が起きるのか。頭脳の心の先天部分の言霊ウの宇宙に何か刺激が加えられつつある事を示しています。この時の音声は誰でも「ウー」であって、他の四つの母音音オアエイでは決してありません。
意識の内部は大部分がボーツとしているのですが、何かが目覚め出した状態、それは広い心の宇宙の中に初めてうごき(動)、うまれ(生)、うごめく(蠢)ものです。それはまだ現象としては現れてはいないけど、心の宇宙の中に何かが動き始める予感のようなもの、とも言うことが出来ましょう。その初めて動き出そうとする宇宙、これは言霊ウの世界なのです。この世界から五官感覚が現れて来る元の宇宙です。
現象には決して表れることのない先天の世界の出来事のお話ですので、どのように形容しても理解は難しいかもしれません。そこで簡単な図で示しましょう。
心の動きが未だ何も起こらない宇宙を○で表現するとしましょう。エネルギーは充満しているが、そこに何の動きも起きていない状態です。禅宗の坊さんが空と呼んいる、心の内を捉えた宇宙のことです。この宇宙の中の一点で何かが動き始めようとします。心で直接感じるわけではないのですが、動く気配とでもいえる心の動きです。それは○の中に一点うが入ったことで示されます。 
「ウー」と声を出して伸びをして、モーローとしていた意識が次第にはっきりしてきました。次に何が起きるでしょうか。目の前の明るさが感じられます。「もう朝かな」とおぼろげな疑問を感じます。人は何かの疑問を感じると同時に見る方の立場と見られる方の側、主体と客体に別れます。この主体と客体の世界に言霊で「ア」と「ワ」と名付けました。
何もない宇宙に何かが始まったことを○→◎と図示します。その何かに対して「何?」という思考が起こると、一つの宇宙が瞬間的にみるものと見られるもの、考える側と考えの対象となる側の世界に分かれます。主と客に分れるということから、精神と物質という区別も付くことになります。宇宙は精神でも物質でもありません。宇宙というただ一つのものです。それが一度人間の思考が加わると同時に、全く対称な二つのもの(アとワ)に分れることになります。

経験知と実践知

人が朝目覚める時を例にひいて心の先天の構造を説明して来ました。何もない宇宙の中に言霊ウの意識が動く出し、次に「何かな」の疑問が始まると同時にアとワ、吾と汝の主と客に分かれました。意識の目覚めが更に進んだらどうなるでしょうか。
主体と客体に分かれますと、次は目の前にあるもの(客体)は果たして何なのだろうか、と考えます。この時記憶が呼び覚まされます。色々な過去の経験の記憶が甦り、目の前のものは何だと決まります。この記憶を呼ぶ主体が母音である言霊オであります。その結果「ああ、あれであったのか」と心の中から呼び覚まされて来た対象の客体世界が半母音言霊ヲということです。
言霊オとヲは過去の経験の記憶が出て来る宇宙です。この記憶と記憶の関連性を調べることから学問・科学が成立してきます。経験知の世界です。記憶の関連性を喪失してしまうことをボケと言います。記憶の関連性のことを昔の人は生命の玉の緒といいました。
更に目覚めが進みますと、「さて今日起きて何をするかな」と考えます。色々な事が考えられます。その中から「よし、今日はこれをしよう」と選択的決定をします。この実践知の出て来る主体の宇宙を言霊エといいます。選択された客体の宇宙を言霊ヱと言うのです。それは選ぶ知恵の世界のことです。

生命意志

現象が起ろうとして実際にはまだ起きていない時、言い換えると心の先天部分はどんな構造になっているか、の説明も、母音・半母音のウ・アワ・オエヲヱが終わり、イとヰだけが残りました。それに先天は十七音で出来ていますから、母音・半母音の他に父韻という八音が加わります。ヒチシキミリイニの八音です。
前にもこの言霊イとヰ、父韻の八音の言霊は難しい、と申しました。何故なら「物事の現象は何故起るのか、現象が起ったとどうして人間は認識することが出来るのか」という哲学者や宗教学者がここ三千年間、求め続けている精神の根本問題であり、未だよく分かっていない事だからです。言霊のイとヰ、それに八つの父韻の説明が難しいと申しますのは、その完全に分かっていない宗教や哲学の用語では、その根本問題を説明するのに不十分なのです。そこで難しい用語を使わず、いとも簡単な例を引いて説明を進めることにしましょう。これはまた言霊の学問の根本問題でもあるのです。
ここに一本の木が立っています。この単純な事柄と思えることについて考えてみましょう。木が立っているな、と見る人がいなければ、この事実は成立しません。またその木が物として存在しなければ見ることも出来ず、矢張り事実とはなり得ません。このような現象がある、ということは、見る方の主体と見られる方の客体の双方に関係しています。
見る主体(人)と見られる客体(木)との関係は単に木があるな、と感じる五官感覚(言霊ウ)だけではありません。この木は何の木だったか、植物図鑑では何の種類に属しているか、という学問の世界(言霊オ)の関係もあります。その他にこの木は絵に描くとすると何号のカンバスが最も映えるかな、という芸術的関係(言霊ア)や、この木を切り倒して道路を作った方が良いか、それとも保存して環境保護を優先すべきか、といった政治道徳的関係(言霊エ)も成立します。
見ている人だけで、木がないとしたら現象は起りません。ですから人は現象にならない純粋の主体です。母音ウオアエイです。逆に木が立っているが、見る人がない、としたら、木は現象にならない純粋の客体で、半母音ウヲワヱヰで表わされます。この主体のウオアエイと客体のウヲワヱヰがどんな交渉で現象となるのでしょうか。
緑の葉を付けた茶色の幹と枝の木が立っていて、人間の眼がそれをそのまま見るだけだ、と思われる方が多いことでしょう。確かにその通りかも知れないのですが、その簡単なわけにも行かないのです。別の例で考えてみましょう。
鏡があります。棒で突いてみます。鐘が振動して空気を震わせ、空気中に振動が伝わって行くます。けれどこの波動自体がゴーンという音を立てているわけではありません。この波動が人間の耳に入った時、初めてゴーンという音に聞こえるのです。突かれた鐘は無音の波動を出しているだけなのです。客体である鐘の出す波動と、主体である人間の認識知性の波動またはリズムといったものがぶつかって、双方の波動の波長がある調和を得た時、すなわち同交感応(シンクロナイズした時、初めて人間は鐘がゴーンと鳴ったな、と認識することになります。)
もう一つ例を引きましょう。雨の後に大空に虹が出る時があります。この虹はそれ自体が七種の色を発しているわけではありません。七種の光の波動を出しているだけです。その波動が人間の認識の主体波動と同交感応する時、初めて七つの色の虹として主体の側において認識されることになります。
主体と客体が、正確に言いますと、主体と客体の五つの次元のそれぞれであるウとウ、オとヲ、アとワ、エとヱ、それにイとヰがシンクロナイズしてそれぞれの現象を生むのですが、母音も半母音もそれぞれを結びつける能動的な懸け橋となるものが必要です。この役目をするのが最期に母音・半母音として残った人間の創造意志(言霊イ・ヰ)の実際の働きであるキシチヒミリイニの八つの父韻なのであります。純主体と純客体とを結びつけて現象を生む人間の創造知性とでもいうもの、その韻律が八つの父韻で表されます。主体と客体とを結びつけるバイブレーションはこの八種しかありません。
するとこの八つの父韻が四次元の結び付けを生むのですから…8×4=32で合計32個の子音を生むことになります。この32個の子音がこの世の中全ての現象の最小の単位ということになります。(先に子音は全部で33個と書きました。ここで示しました1個の差については後程説明することに致します)
人間の創造意志である言霊イとヰについてもう少し詳しく説明しましょう。先の五母音の説明のことろで、この言霊イの宇宙は他の四つの母音宇宙を根底から支え、統合している宇宙だ、とお話しました。根底を統合する、などと言っても内容がはっきりしないかも知れません。もっと平たく言いますと、この言霊イという創造意志は他の四母音の世界の現象を生む原動力だ、という事です。五官感覚による言霊ウも、経験知の宇宙の言霊オも、感情の宇宙の言霊アも、実践知の宇宙の言霊エも、生命の創造意志である言霊イが働かない限り、何の現象もうまれない、ということです。
欲望が起るのも生きる意志があってです。経験を積む好奇心も、嬉しい悲しいの感情も、今・此処で如何なる道を選ぶかで悩むのも、すべて生きようとする意志が縁の下の力持ちとなって働くからであります。
そして、その縁の下の力持ちとなって働く力、それが言霊イの実際の働きであるヒチシキミリイニの八つの父韻です。それは主体と客体がシンクロナイズして現象である全部で32に子音を生むことになります。
言霊イには以上の他にもう一つ重要な働きがあります。それについては誰も想像もしないことなのですが、人間が生きることにとって重要なことなのです。
言霊イは

一、母音として他の四つの母音ウオアエの宇宙を統一して支え
二、その実際の働きである八つの父韻ヒチシキミリイニとなって、母音、半母音に働きかけて現象を生み、
三、生まれ出た現象に名を付ける役目を果たす。

という宇宙の根本活動を全て一手にやっている存在ということが出来ます。そこで母音イと半母音ヰとを他の母音・半母音から区別して親音と呼んでいます。この言霊イとヰの存在と働きに対して宗教の教義では「創造主」と呼んで崇めています。
人間はこの十七個の言霊によって構成されいる頭脳の活動によって構成されている頭脳によって物を思い、考え、行動し、文化を創造していきます。それは国家・人種の区別なく人類全てが皆同様です。また人類がホモ・サピエンスとしての種を保つ限り、この頭脳構造は永久に変わることなく続くことでしょう。
地球上には幾多の国家、人種があります。その言葉も多種多様です。けれども人間である限り、その頭脳は右の十七音の言霊で構成されています。そしてその頭脳の構造をこれ以上正確に解明するものは他に有り得ないことでしょう。人間の頭脳の精神構造は人類の歴史の上で、己に数千年の昔に明らかにされているのです。

神様に対する態度

現代人が神様(仏様)に対する態度にはどんな事が考えられるでしょうか。先ずは神を信じること、次に神を信じないこと、の二種類が考えられます。その他に、と言えば「人間は誠心誠意励んでいれば、拝まなくても神は守ってくれる筈だ」という人がいます。この人も神の存在を心の底では信じている人でしょう。

古代の日本人の神に対する態度は大変はっきりしていました。その態度は二種類あり、言葉の上で明快に区別されていました。一つは「斎く」であり、もう一つは「拝む」ことであります。
を説明しましょう。斎くの語源は「五作る」です。五を作るとはどう言うことなのでしょうか。そこに言霊が登場です。人間の心は五つの母音の重畳で出来ています。心の先天構造の章でお話しましたが、五官感覚による欲望の宇宙(言霊ウ)、経験知の宇宙(言霊オ)、感情が出てくる元の宇宙(言霊ア)実践知道徳の宇宙(言霊エ)、それに創造意志の宇宙(言霊イ)の五段階の宇宙です。
「五作る」の作るとはよく理解して使い別ける、という意味です。人は物事を考える場合、ともすると眼前の事態を欲望の問題として対処すべきか(言霊ウ)、過去の経験知に全面的に頼るのがよいか(言霊オ)、それとも感情の赴くままに解決すれば良いか(言霊ア)…等々、問題の捉え方に迷って考えあぐむ事がよくあるものです。この場合、人が若しそれぞれの異なる心の宇宙や次元を自分の心中にはっきりと区別し認識して、それぞれの次元に心がどう動くかのメカニズムの相違を熟知しているとしたら、その人はどんな問題にも気持ちよく対処していくことが出来る筈です。迷うことはありません。
そういう人間になろうとすれば、どうしても自分の心の中で、ウオアエイの五つの母音宇宙をしっかりと把握しなければなりません。この五つの母音宇宙を把握している人を霊を知る人の意味で聖と昔の人は呼んだのです。斎くとは神に対する最高の態度であると同時に、神そのものの態度である、ということが出来ましょう。
「拝む」に移りましょう。拝むとは神様の前で頭を下げて、誓いをしたり、御利益を願ったりする態度です。今より二千年前、崇神天皇という天皇は、その時まで人間精神の構造を表し、日本の言葉の原典であり、政治の鏡でもあった言霊の原理を天照大神という名の神様として伊勢の神宮に祭ってしまいました。それ以来、生きた聖が此の世に次第にいなくなったのです。人間の心の住家である五つの母音宇宙(家・五重)のうち、人々は最高段階にある生命の創造意志(言霊イ)と、その意志の法則である言霊の原理に則って行う実践知(言霊エ)である英知の自覚を失ってしまいました。
人々は生命を支配する法則と、その運用法である実践知の自覚を失った結果、その大きなものを神と見立てた神社の前で頭を下げ、身の安全と幸福を願い求めるより他に方法がなくなったもです。これを拝む態度です。
古代には現代社会が持っているような物質文明はありませんでした。だからと言って、大昔の人が野蛮人であったのではありません。現代人が想像も出来ないような精神文明が花開いていたのです。その時代の人間からすれば、現代人はやっとティーンエイジに届くか届かないかの「青二才」なのかも知れません。
拝むと愚かとは語源を同じくしています。拝むということは神に対して愚かもののとる態度ということが出来るのです。
現代の科学はまことに素晴らしい成果を人類にもたらしました。物質文明はその頂点を極めようとする勢いです。と同時に、その半面人類に大きな危険というお土産も持って来ました。原爆戦争・地球的規模の公害その他種々のハイテクによる底知れない生命の不安等々、昔では考えられなかった問題も山積みしています。人類を全滅させることの出来る殺人道具を運転管理しているのは、やっと年十才に達した洟垂れ小僧というわけです。
生命の法則である神を拝むではなく、その法則を自己の心の中に自覚・実現する「斎く」人の世の中に早くなることを世界の人々に大声で叫び度い、と思うのです。

5種類の50言霊音図

五十音図といいますと私達は小学生の時から教えられたアイウエオ五十音図が唯一つあるだけと思って来ました。その上、五十音図が何故縦にアイウエオと並び、横にアカサタナハマヤラワと並ぶのか、などということは全く考えたこともなかった、というのが実情でしょう。そもそも音図とは何なのでしょうか。この本の「はじがき」で書きました疑問にお答えする時が来ました。 今迄にお話して来ましたように人間の心は全部で五十個の最小単位の要素である言霊から成立しています。その内訳は五つの母音、四つの半母音(ウを除きます)、八つの父韻、それに三十三の子音であります。人間の心はこれで全部ですし、これ以上でもこれ以下でもありません。

 昔の昔、日本人の祖先は心は五十の言霊から成立している、ということを解明し、それと同時にその五十音の言霊をどのように並べたら人間のその時その時の心の一番理想的な持ち方を表すことが出来るか、を明らかにしました。それが五十音図なのです。
この五十音を配列する場合、自分自身である私の心の宇宙(心の五重)である母音を右側に並べます。そして行動の相手である貴方の心の宇宙(半母音)を左側に並べます。その上で私と貴方、母音と半母音を結ぶ懸け橋となる意志の運び方である八つの父韻を右から左へ横に並べます。
さて縦の母音(半母音)の並び方の順はどのように定めるのでしょうか。横の八つの父韻の順はどのように定めるのでしょうか。それが問題です。
先ず母音の順序です。この場合、人間のその時の最も行動の主眼となる心の次元を五母音の中心に置くことになります。
例えば、商売をする人の心の場合です。その心の主眼となるのは欲望です。言霊ウです。ですからウを五母音の中心に置きます。商売の心の世界が欲望(ウ)だからと言って、商人の心の中を他の四つの次元、経験知(オ)・感情(ア)・実践知(エ・道徳心)それに意志(イ)がないわけではありません。ただ商人は商売をする時、ウ言霊である欲望性能以外のウ次元の目的を達成する為の手段(道具)に使うこととなります。長年の経験(オ)も、明るい人柄(ア)も、そして嘘をつかない正直さ(エ)も意志の強さ(イ)も、全て商売を成立させる手段となります。
その手段であり道具となる他の四つの次元の中で、目的達成に有効なもの程中心のウに近く配列して行きます。そうしますとウ言霊を心の中心にして行動する人の心の母音は、上からアイウエオと並ぶことになります。
以上で縦の母音の並べ方の法則は分かりました。次に私と貴方、母音と半母音を結ぶ八つの父韻の並べ方についてです。
八つの父韻といいますのは、私と貴方とを結んで私自身の行為の目的を達成させるための意志の運び方です。この意志の発動の仕方に八種類があり、それぞれ特有な働きがあります。また八種類で動きの全てです。他にはありません。唯残念なことには、意志の働きというものは心の奥の奥のものですから、言葉で簡単にそして分かり易く表現することが困難です。言霊学の最も難解な箇所なのです。でありますから、本書ではその一つ一つの働きの説明は既刊「言霊」を参照していただくとして、ここでは八つの父韻の並べ方が心の次元によって全く違って来る、ということだけを申し上げておきます。
そして音図に向かって右の母音の私から意志が発動され、半母音の貴方と結び付いて行為が完結します。意志の働きは右から左に向かって流れることになります。そのようにして商売をする人の意志の順序は、意志を表す言霊イの段階のキシチニヒミイリと決められました。
そうしますと、縦に母音がアイウエオと並び、横にキシチニヒミイリとなって、五十音図は、私たちが日頃使っているアイウエオ五十音図が完成します。この音図のことを昔、古神道では天津金木(音図)と呼びました。
私達が日頃これだけしかない、と思っていたアイウエオ五十音図は、実は人間の性能の一つである欲望(言霊ウ)の目的を達成するのに最も適した心の持ち方を示す音図(天津金木)だったのです。物質文明を中心としたここ二千年の人類の歴史の中では、この音図で示された心の構造が最も頼りになる、という事実から考えますと、もっともな事と頷かれます。

言や物に名前を付けること

最後に物事に言霊による名前を付ける、ということの意味がどんなものかを説明することにしましょう。
人間の心とは何か、また心と言葉の関係にあるのか、ということをテーマに心の奥底にまで踏み入り、研究の結果人の心が五十個の要素から成り立っていることを発見し、そのそれぞれにアイウエオ五十音の単音を当てはめ、言霊と呼びました。それは言葉の最小単位であると同時に物の最小単位でもあります。
精神の側から見たこの宇宙は究極的にこの五十個の言霊によって構成されていて、それ以上のものはなく、それ以下であることもないわけです。そして私達日本人の先祖はこの五十個の言霊の認識の下に、言霊の結合によって宇宙の中の事や物に名前を付けて行きました。古代日本語、大和言葉の創造です。
こうやって言霊を結びつけることによって作られた言葉は、そのままその物事の真実の姿を表わすことになります。言葉がその実相であって、その姿を殊更に概念や何かで説明する必要がありません。そこには議論の起こる余地がありません。その理由で我が国のことを昔は「惟神言挙せぬ国」といいました。「名前がそのまま物事の実相であって、その他にくどくどしい説明を必要としない国」といういみであります。
真実の姿とか実相などと言いますと、物事を人が普通に見た通りのままの姿ならそれが実相だろう、と思い勝ちです。けれども一概に言い切れない事が多いのです。何か紛争が起こりますと、現状の解釈に付いて意見がかみ合わない事があります。甲論乙駁議論は果てしなく続きます。物事の真実の姿は唯一つしかありませんのに…
そこで言霊によって物事の名前を付ける、ということの意味の大切さというものが浮かび上がって来る事になります。例えば次のようになります。
六百四年聖徳太子が作った十七条の憲法について見ましょう。その中に「和を以て貴しとなす」とあります。なにげなく読めば、「仲良しなことが大切だ」ぐらいにしか受け取られません。「そんなこと位、当り前じゃないか」と言うことになります。しかしそれなら「和」とは何だ、ということになると実際の世の中では中々難しい事になるのではないでしょうか。このことを言霊ワの立場から見ますと議論の余地のない決定的な意味が出て来ることになります。
ワという音一字で示される言葉を辞書で拾って見て下さい。余り多くありません。和・輪・その他吾に対する汝ぐらいです。音図上で考えますとアは純粋主観であり物事の発端で、ワは純粋客観で物事に結末ともなります。
輪○とは円状の或る点から二つの反対方向に分かれて行き、やがて究極的にまた一点に於いて一致することです。
これが初めの一点から一旦別れて、やがて究極で結ばれる輪(ワ・和)の完成です。この意味の和が真の「和」であるのです。このように自分の心の中で言霊ワを知った人は、何時でもその心は和で居られるわけです。口角泡を飛ばして議論しても、その人の心は「和」なのです。これが言霊ワの意味内容であります。

おわりに

人が朝目覚める時例に挙げて、先天構造を説明してきました。何もない宇宙の中に言霊ウの意識が動き出し、次に「何かな」の疑問が始まると同時にアとワ、吾と汝の主と客に分かれました。意識の目覚めがされに進んだらどうなるのでしょうか。
 主体と客体に分かれますと、次は目の前にあるもの(客体)は果たして何なのだろうか、と考えます。この時記憶が呼び覚まされます。色々な過去の経験の記憶が蘇り、目の前のものは何だと決まります。この記憶を呼ぶ主体が母音である言霊オであります。その結果「あぁ、あれであったのか」と心の中から呼び覚まされてきた対象の客体世界が、半母音ヲということです。
 言霊オとヲは過去の経験の記憶が出て来る宇宙です。この記憶と記憶の関連性を調べることから学問・科学が成立しきます。経験知の世界です。記憶の関連性を喪失してしまうことをボケといいます。記憶の関連性のことを昔の人は生命の玉の緒といいました。
 さらに目覚めが進みますと、「さて今日起きて何をするかな」と考えます。色々なことが考えられます。その中から「よし、今日はこれをしよう」と選択的決定をします。この実践智の出て来る主体の宇宙を言霊エといいます。選択された客体の宇宙を言霊ヱというのです。それは選ぶ知恵の世界のことです。