古事記と日本書紀

 これまで言霊の原理、運用法、その習得の方法等について極めて簡単に説明してきました。心の内容に省みてその内容を探ることに馴れない現代人にとって私の説明は詳細を盡したとは言い得ません。説明不足の点の捕捉は他の機会に譲ることとして、ここでは本論で説きかけてそのままになっている事項を捕捉付加することにいたします。
 その初めは古事記と日本書紀についてであります。
 古事記と日本書紀はそれぞれ奈良時代のおおよそ同じ頃編纂されました。そのおのおのの神代の巻は共に神話の形を用いた言霊原理の手引書です。ところが古事記と書紀の冒頭には顕著な相違があります。いまその最も重要な相違点について説明しましょう。古事記に最初に現われる神名は天之御中主神であるのに対して、書紀では国常立命です。古事記では国常立命は六番目にでてくる神名です。また記紀では神と尊(命)の違いも目につきます。天之御中主神は言霊ウ、国常立命は言霊エでありました。古事記では、先に書きましたように人間の頭脳中の意識の自覚の順序に従って、心の先天から後天の現象が生まれるまでの消息を言霊を示す神の名前をもって呪示したのでした。国常立命言霊エとは、天之御中主神言霊ウが意識の中に生まれ、それが高御産巣日、神産巣日(ア・ワ)である主体と客体に分かれ、その分かれた対象を記憶である天之常立オの中からその中の何を規定すべきかを選ぶ働きであると説明されました。この古事記の叙述の場合、神の名前とは実体である言霊の説明概念に相当します。古事記は意識の実体である言霊が生まれでてくる内容の構造と法則の説明書です。
 これに対し書紀の記述が神を使わず命を用いているのは何のためでしょうか。言霊エの選ぶということの具体的な行為は、言霊ではどのように現れるかを考えてみましょう。まず行為の創造意志言霊イ(ヰ)が発動します。その意志の展相すなわち実際の姿はヒチシキミリイニの八父韻です。父韻とは主体と客体とを結んで現象を創造する韻律リズムです。いかなる行動をするかを規定し選ぶということは、実際には主体が客体に対して結びつける八つの父韻の端緒から結論に至る順序をどのような配列にするかの選定であります。言霊ウの人の場合はツクムフルヌユスを、言霊オの場合はトコモホロノヨソを、そして言霊アの人の場合はタカマハラナヤサを選ぶということになります。
 大和言葉の命とは言霊を自覚した御言であり、それを自覚遂行する人間そのものをも表現します。ゆえに古事記は言霊を意識の自然発生の順序と法則として説き起こし日本書紀は、その言霊法則を知った人が、一人の人間として、同時に神道でいう命として、仏教でいう仏の化身である果位の菩薩として、キリスト教のいわゆる降臨の羔羊として、創造する行為の内容を言霊をもって説き起こしているということができます。古事記の神と書紀の命との相違は以上の通りであります。
 人類は休むことなく文明を創造しています。その創造の根源主体すなわち創造主は言霊イ・ヰ(親音)であり、神道では伊耶那岐神・伊耶那美神と称します。この二神の創造意志が働き、その展相であるヒチシキミリイニ八父韻がウオアエの四母音に呼びかけることによって三十二の子音(現象)が現れます。次のこの創造意志が現象を生む人間精神の具体的構造を言霊をもって示す図を揚げておきましょう。いわば言霊講義の結論図ということができます。