島田正路の言霊:言霊と仏教典②

 日本神道に言霊の原理を器物をもって表徴した三種の神器があります。八咫の鏡、八尺の勾珠、草薙の剣です。剣とは人間本具の判断力のことで、これをもって事物の姿を断ち切ると実相がわれます。究極の実相は五十個の言霊です。これを勾?で表現しました。この五十個の言霊を理想形に組み立てた精神の規範が八咫の鏡です。ところが仏典にも同じ内容を説いた箇所があります。観普賢菩薩行法経です。「化仏の眉間より亦金色の光を出して・・・象の耳の中に入り、象の耳より出でて象の頂上を照らして化して金台となる、象の頭の上に当たって三化人あり、一人は金輪は鏡に、摩尼珠は勾珠に、金剛杵は剣に、相当して意を盡しているではありませんか。しかも「化仏の眉間より金色の光を出して・・・」と始まる金色光発現の循環は、先にお話しました言霊発現の順序である頭脳内に先天のアイデアが浮び、次いで無言の言葉が組み合わされ、発音されて空中を飛び、耳より入り確認されて再び先天の脳に帰る言葉として宇宙の循環をそっくりそのまま現わしています。三種の神器の操作の実体が言葉・金色光である言霊であることを同じように示しているのです。
 また仏教には神道の八咫の鏡と同義のものに閻魔大王の浄玻璃の鏡が上げられます。人間が死んだらいったん閻魔大王のところに行き、生前の悪事は大王の側に置いてある浄玻璃の鏡に映し出され嘘をつくことはできないという教えです。八咫の鏡は人間精神の理想構造を形どったものですから、生きている時と死んだ後との違いはあれ、全く同様なものの表徴物ということができましょう。鏡の実体は言霊五十音でもって構成された人間の道徳・政治規範である天津太祝詞音図のことです。
 人間の経験知ではない天与の判断力のことを、宗教では器物化して一般に剣または杖と言います。その剣を振るい、杖に頼ることによって物事の実相を究め、行動の判断を誤ることなくする心のよすがです。不動明王の智剣、禅の柱杖等が挙げられます。(キリスト教旧約にはアロンの杖があります。)その他「両頭を裁断すれば一剣天に倚って寒し」などの名文句も出てきます。両頭とは主と客、私とあなたという分別的概念知をズバリと否定してしまうと、疑う余地なく明察する天与の判断力が宇宙を貫いて樹っていることが自覚されるという意味です。その他「大明三尺の剣」とか「三十年来剣を求むるの客」などの禅語も同様の意味でありましょう。坐禅の目的が天与の判断力の体得にあることは明瞭です。そして天与の判断力の実体とは、言霊十七音をもって表わされた天津磐境の構造のことなのであります。
 以上書きましたことの他に、仏教において端的に言霊を表示している教えに真言密教の「阿字本不生」があります。欲望ウや経験知オ等の心的現象が拠ってそこから出て来る元の宇宙すなわち空なる宇宙である阿字(言霊ア)は宇宙開闢以来存在していて、いま生まれるごときものではない、という意味であります。
 言霊を呪示表徴する仏典の言葉を求めて神道と仏教の同義の物事を数種挙げてきました。仏教の創始者である釈迦は長い年月の説法の末に「我真実に於て一字不説」と申したとあります。この言葉は一般には仏教の空の悟りの境地か、経験知の言葉では説明することが困難だから「一字不説」(一字も説くことがなかった)と言ったというように解釈されています。しかしその解釈は見当違いです。法華経化城論品で釈迦牟尼仏は「空の悟りの境地とは、民衆が発心を諦めることを防ぐために一時的に仮に見せた化城(幻のオアシス)なのであり、空を悟った人はさらに心を新たにして第一義である最高の悟りに向かって発願せよ」と説いています。その最高の悟りとは「諸仏の語は異なることなし」といわれ、「仏と仏とのみいまして諸法の実相を究盡し給う」と説かれる「教菩薩法、仏所護念」(菩薩を教導する法、仏が常に念うもの)と称せられ、しかも「一字不説」とその実態を釈迦が明らかにしなかった五十音言霊そのものなのです。仏典の中には、言霊の比喩表徴する言葉はこの他無数に出てきます。言霊の原理を学んだ上であらためて仏典を読んでみますと、仏教自体ではなかなか理解できない経典の内容も容易に解読することができるようになることに驚かされるのです。言霊と仏典との関連は一応この辺にとどめておきます。