五十音言霊の歴史③

 物は焼ければ跡形もなくなります。けれどもその物を作ったり見たりした人の記憶には長い間残ります。一度人の心に印画されたものは、その人一代は勿論、子々孫々に心の中に受け継がれ、消え去ることはありません。そして必要があれば、その責任を負う人の頭脳を通じて記憶として甦るものなのです。ましてそれが民族の言語を生んだ原理ともなれば、その言語がその民族によって語られ、それによって民族の歴史が創られている限り、言霊の原理が時到らば再び復活することは当然と言うことが出来ましょう。
 第十代崇神天皇により言霊の原理の政治への応用が廃止され、世の人々から言霊の原理の存在は次第に忘れ去られて行ったのですが。その後の歴史の中で、その行跡や遺された文章などによって言霊の原理が明らかに、またはある程度知っていたと思われる人々の名前を挙げることが出来ます。「古事記」を撰上した太安万侶、「日本書記」撰上した舎人親王、その他役小角、柿本人麻呂、菅原道真、空海、日蓮等々です。
 これらの人達が残された行跡や文章から、言霊のことをどのように表現していたか、という話は興味溢れる問題ではありますが、紙数の関係上今回は省略することに致します。
 近代になって初めて言霊の原理の存在を知り、言霊研究の先鞭をつけられたのは明治天皇であります。天皇のお歌の中には「敷島の道」とか「言の葉の誠の道」という言葉が数多く見られますが、これらの言葉は現在世の中で言われるような単なる三十一文字の和歌の道のことではなく、言霊の原理を指したものなのです。
 明治天皇の御製に次ぎのような歌があります。

聞き知るはいつの世ならむ敷島の大和言葉の高き調べを
しるべする人をうれしく見出しけり我が言の葉の道の行手に
天地を動かすはかり言の葉の誠の道をきはめてしかな

古代に於いて三十一文字の和歌は、唯単に事物や感情を歌うだけではなく、その中に言霊の原理を巧みに織り込むことによって言霊の原理(布斗麻邇)の修行を積む方法であったのです。万葉集から古今集までの和歌にはそのような歌が幾多発見されます。
 明治天皇の皇后となられた昭憲皇太后が一条家よりお輿入れの折、その道具の中に言の葉の誠に道に関する書物が入っていて、天皇は皇后と共に言霊の原理の存在に気付かれた、と伝えられています。明治天皇が日本民族の伝統である事の葉の誠に道(言霊布斗麻邇)の真理に精通しようと如何に希望されていらっしゃったか、前記のお歌がよくそれを物語っているように思われます。
 明治天皇・皇后お二方の言霊の学問のお相手を務めたのが山腰某なる天皇付きの書道家でありました。氏は小笠原孝次氏の、そのまた先生であった山腰明将の父親でありました。
 太平洋戦争後に亡くなられた山腰明将氏に残された文章の中に、古事記の神代の巻に出てくる神様の名前がそれぞれアイウエオ五十音の一つ一つと結び合わされていました。前に説明したことですが、古事記の神様の名前と五十音の一つ一つを結び付ける作業は一人や二人の人で研究したのでは到底出来ない言霊学の奥義でありますので、この奥義は多分長い間宮中に秘蔵されていたものであろう言が推測されます。
 山腰氏の学問を受け継ぎました小笠原孝次氏の生涯をかけた研究によって、その時まで全く信仰的・哲学的でありました言霊の学問を、現在に生きている人間の心の学問として、考える人間の心の構造を明らかにした精神の科学としての体系にまとめ上げられたのでした。
 日本語を話す人なら誰でも、自分の心を反省してその心の仕組を考えて行けば、必ず到達することが出来る精密な学問体系として完成されたのでした。
 希望する人なら誰でも古代の日本人の祖先がそうであったそのまま姿で、人類の第一の文明の真髄であった精神の原理をマスターすることが出来るようになりました。アイウエオ五十音言霊の原理は二千年の暗黒の歴史の中から不死鳥のように甦った、ということが出来るのでありましょう。

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