言霊子音の自覚について③

 以上言霊ウ・オ・ア・エ次元に住む人の心の運び方についてそれぞれ検討してきました。
それぞれの精神運用の代表的な思想といいますと、言霊ウにおいては欲望に基づいた産業人の心が挙げられ、言霊オでは広く学術科学に従事する人々の心が浮かびます。世の中の発展にとって双方とも欠かすことのできない重要な分野がありますが、それに従事する人々は競争場裡に埋もれて日夜心の休まる暇とてありません。母音・半母音を欠くことがその精神的自由が完全には無いことを示しています。古事記ではこの思想のことをスサノオの命の八拳剣と呼び、母音・半母音を欠いた八父韻のみで表示される精神体系であり、日夜現象のみを追いかける次元であることを比喩で示しています。
 次に言霊ア次元の心構えですが、母音の自覚はあるが、半母音を欠き、そのため、心の運びの最終結果は基本要求であるに留まり、結論は常に訴えられる先方に委ねられています。これは神道では九拳剣と呼ばれその代表的な思想としては東洋の哲学、宗教理論が考えられています。
言霊エ次元に至って初めて母音、半母音の自覚が整い、神道で十拳剣と呼ぶように十音が横に揃って完全な五十音図そのままの思想体系の自覚が成立します。
ここではいま・ここの一念の内に発端も結果も見通された自由で円満無礙な精神の完成がめざされています。この心の持ち方の代表的なものといえば、仏教でいわゆる菩薩行が挙げられます。先にも説明しましたように、魂の自由の自覚を得た人が、さらに一念発起して自分以外の人にもこの自由を自覚してもらうために、どのように他人に対処していけばよいかの修行のことです。
そしてこの修行の進展の末に人間の最高の精神図式の完成された人を仏教で仏陀と呼びました。過去の世界の聖者・高僧といわれる人々が、この人間精神の完成をめざしてどれほど修行渇仰してきたことでしょうか。

 我聞く天台山 山中に琪樹有り 永言して之を攀ぢんと欲すれども 石橋の道を暁る莫し 此に縁って悲歎を生じ
 幸居して将に暮れんとす 今日鏡中を観れば 颯々として鬢髪垂れて素の如し
 (註)琪樹とは宝の実る樹、仏教では宝とは摩尼宝珠のこと、
    石橋とは此岸より彼岸(仏の国)に渡る橋。素とは白糸。

 上は中国の聖僧寒山の詩でありますが、彼が悟りの究極にある摩尼宝珠といわれるものの実体の自覚をいかに渇仰し、それに達し得ない自分を嘆いていたかを示しています。「五十年一字不説」釈尊は五十年間説教をしたのですが、実は仏の実体の真理の存在を説いたのであって、真理そのものは一言も説いたことがないといいました。皮肉にも仏教からは仏は現われることはありません。仏の護持する究極の心理それは五十音言霊の原理なのです。

2024年4月
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