宝塚、そしてバレエ団創立
宝塚歌劇団に入ると、そこはスターに憧れる、若い女性ばかりの「花の花園」でした。
そんな中に、男3人が混じり、バレエや音楽のレッスンを行うのです。宝塚歌劇団は阪急東宝の経営する壮大な宝塚遊園地の敷地の中に併設されていました。そこには大劇場の他に、動物園や植物園、また、大小何種類もの浴室を持つ宝塚温泉やホテル風の各種レストランもありました。今でいえば、ディズニーランドのような一大テーマパークでした。メリーゴーランドが華やかに回り、まわりには宝塚歌劇団や宝塚音楽学校の美しい女性たちに溢れいるのです。まさに天国にいるといってもいいくらいです。
私はすぐに「こんな環境にひたっていては、本格的なバレエはできない」と悟りました。そして、そのことを歌劇団の理事長である引田一郎氏に訴えたのです。
当時の宝塚歌劇団は、ロシア(当時はソ連)から亡命したオルガ・サファイアという先生がバレエの伝統を植え付け、その教えを出口秀子先生がそれを受け継いでいました。医学を捨てたほどの情熱でレッスンに励んだ私は、あらかたのテクニックは半年ほどでほとんどマスターしていました。出口先生からは「上達が速い」とお褒めの言葉をもらっていました。
それでも私の決意は変わりません。理事長の引田氏は話の分かる人でした。最初のうちは「宝塚でしばらく辛抱していれば、いずれ歌劇団の役員にでもしてあげるから」と言ってくださったのですが、私の熱意に打たれ、ついに東京の東勇作バレエ団に内地特別留学生として派遣されることになりました。宝塚歌劇団には、歌の上手な団員を東京藝術大学に声楽専科生として入学させるなどの内地留学制度があったのです。
宝塚歌劇団から毎月給料が送金され、お金の心配をすることもなく、私は東京でバレエの練習に打ち込むことになりました。東勇作バレエ団は、東京で最も評判の高いクラシック・バレエ団でした。松山団の松山樹子さんも、東先生の門下生です。
一年後、帰社命令が出て宝塚歌劇団に飛び戻された私は、宝塚音楽学校のバレエ教師に抜擢され、歌劇団の振り付けも担当しました。一緒に入団した2人の男性は、後輩の5人とともに私の生徒になりました。宝塚での最初の教え子の中には、後の大女優になる有馬稲子がいました。
バレエ教師や振り付けをする一方で、東宝系の劇場である梅田劇場で『ハンガリアン・ラプソディー』というミュージカルで、私は主役を演じることになりました。
このミュージカルをたまたま観に来ていたのが、休学中だった大阪市立大学医学部の事務部長だったのです。
彼は私に向かって、「君も主役になって満足だろう。しかし、男のやることではない。もう大学に帰ってきなさい」と懇々と説得してくれました。私自身、休学という中途半端な状態が気になっていたので、いったん医学部に戻りました。大学の友人たちは、こぞって「このまま医者になれ」と言いましたが、ディアギレフへの夢が断ちがたく、数か月後、宝塚歌劇団に復帰しました。
西野皓三│バレエ団の創立①
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