宝塚、そしてバレエ団創立②
こうした紆余曲折はあったものの、宝塚でバレエを教え、コリオグラファー(振り付け師)として活躍していた私は、まさに順風満帆のバラ色の世界にいるかのようでした。しかし、私はある時、はっと気がつきました。「自分は歌劇団という花園の中で舞っているチョウになってしまう」と我に返ったのです。
私が目指したのは、ディアギレフではなかったのか。多くの芸術家を集め、人々が本当に感動する舞台を作ったディアギレフではなかったのか…私は原点に戻るために宝塚を辞めました。そして、大阪バレエ学園という自分のバレエ学校を作ったのです。
医学部出身の変わり種がバレエ団を作ったということで、当時まだ数の少なかった週刊誌などに私と大阪バレエ学園のことが紹介されました。松下電器創設者の松下幸之助さんの知遇をえることになったのは、これがきっかけでした。
松下さんは、感動する心を持ち、好奇心富んだ方で、若者の代表として私から新しい考え方や感覚を知りたいと、毎週日曜日には夙川のお宅に私を招いたのです。
大阪のバレエ学園はたいへん順調でした。宝塚の生徒ばかりでなく、大阪の中流家庭の子女が集まり、熱心にレッスンを繰り返していました。生徒たちに教える一方、私はあらゆるルートをたどり、当時、なかなか入手困難だった海外のバレエ書を集め、学びました。しかし、書物は書物、本場のバレエを身に付けるためには自分自身が動かねばなりません。バレエ団創立2年目に1951年、私は単身、ニューヨークのメトロポリタン・オペラ・バレエ・スクールに留学することになったのです。
留学するまでの2年間で、私はハードなレッスンの末、7名のバレエ助手(教師)を育てました。留学中は、この7人がバレエ団の留守を守ってくれましたが、私は毎週ニューヨークからアメリカ直伝のバレエ・レッスンをエアメールで送り、書面での指導を続けました。
西野皓三│バレエ団の創立②
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