西野皓三│バレエ芸術①

細胞が喜んでいる動きこそ、バレエ芸術①
今日でこそ、アメリカ留学などは簡単なことですが、敗戦から間もない1951年(昭和26年)当時、アメリカに行くこと自体、日本人には至難のわざでした。実際、アメリカ行きの飛行機は米軍がチャーターしたカナディアン・パシフィック機で、乗客は私以外、全員が朝鮮戦争からの帰還兵でした。
1951年の日本から見るアメリカは、まさに別世界でした。私がまずカルチャーショックを受けたのは、途中給油のために立ち寄ったバンクーバーの空港にジャズが流れ、ハイヒールをはいた婦人が、見事に毛をカットした白いプードルを連れて歩いている姿を見た時です。当時、東京、大阪などは、戦災から徐々に復興してはいたものの、まだ空襲の焼け跡も残り、一部では食べ物が乏しく、赤犬を捕らえて食べていた時代でした。
現代からみればなんでもないことが、当時の私(日本人)には、一つひとつが驚きの連続でした。ホテルで蛇口をひねるとお湯が出てくることや、一般家庭にテレビがあり、そのテレビからサンフランシスコ講和条約調印式(1951年9月8日)の様子が流れてくることなど、信じられないことばかりでした。
留学先のメトロポリタン・オペラ・バレエ・スクールには、そうそうたる教師陣が待っていました。私にとって何よりもうれしかったのは、ディアギレフ・バレエ団でソリストとして踊っていたマーガレット・クラスケ女史が直接習えたことです。
バレエの歴史の息吹を肌で感じながら、私はレッスンに明け暮れました。
クラスケ女史は活き活きとジャンプをする私を非常に可愛がってくれ、事あるごとにソプラノのような高い声で「ニッチ」「ニッチ」と呼ぶのです。
私は、日本の「日」を「ニッチ」と言っているのかと思いましたが、国際人であるクラスケ女史にとって、私がどこの国籍であるかはまったく関係ないはずです。不思議に思っていたのですが、「ニシノ」の「シ」が発音できなくて、「ニッチ」「ニッチ」と呼んでいるのだということがやがて分かりました。
クラスケ先生の他には、世界的なコリオグラファーであるアントニー・チューダー氏に習いました。氏は995年に亡くなりましたが、20世紀最大のコリオグラファーの一人と言われています。