西野皓三│啓蒙から科学②

啓蒙の時代から、科学の時代へ②
また、1996年10月23日、法王庁科学アカデミーに寄せた書簡で、ヨハネ・パウロ二世はダーウィンの「進化論」を「すでに仮設の域を超えており、カトリックの教えと矛盾しない」(ロイター・サン)として130年ぶりに認める見解を明らかにしました。
この話題は良く24日、世界中の新聞に「歴史的な見直し」(イタリア・コリエーレ・デラ・セラ紙)、「法王いわく、われわれの先祖はサル」(イタリア・イル・ジオナーレ紙)といった見出しで載りました。
最後に三番目の時代がきます。それはデカルトの心身二元論以降の近代、そして現代という「科学の時代」です。
科学の時代とは、古代のギリシャ神話の神々や、中世の全知全能の神、絶対の象徴である神が失われた時代ということでもあります。そして、神に代わるものとして現れたのが…けっして絶対的だとは言えないのですが…「客観的」で「相対的」な知としての科学です。
科学は、自然を無機質な物体あるいは機械と見る古典物理学が基盤となっています。その結果、神が失われた後の人間と自然の関係にも断絶が生じてしまいました。
言い換えれば「科学の知」とは、外の世界を、自己の生命および身体と切り離して眺め、観察し、探求することによって切り拓かれた世界なのです。それは自然は人間にとって、外なる対象物になっています。
近代西洋医学は、人間の体の各部分を、たとえば心臓は心臓、肝臓は肝臓と、あたかも個々の別々のものとして捉えることによって、生身の身体の有機的な全体を忘れてしまうことがあります。病気の原因である部分の治療を優先させるあまり、「気がついたら病人が死んでいた」ということも起こっています。
患部の治療を優先させるべきか、あくまで身体全体を大切にすべきうなのか…臓器移植問題の難しさの根本には、こうした「科学の知」の性質が大きく関係しているのです。