西野皓三│暗黙知②

暗黙知②
偉大な発見に導かれるような問題が見える(立てられる)ということは、単に隠れているものが見えるということだけではなく、他の人が夢想だにしなかったものが見えるということなのです。ボランニーhs「これは隠されてはいるが、それでも我々が発見できるかもしれない何物かについて、我々が持っている内感(intimation)である」と語っています。
暗黒知とは内感であり、その内感は頭脳ではなく腸管内臓系をメインとした細胞レベルの身体に宿るのだと知るべきでしょう。
ニーチェは身体を軽視する知識人に向かい、こう語っています。
身体を軽蔑する者に、私は私の言葉を言いたい。かれらが考えなおし、説をあらためることなどは、私は求めるところではない。かれらはさっさと自分の身体に別れをつげて、口をきかなくなってもらいたいものだ。
「私は身体であり魂である」…これが幼子の声だ。なぜ、ひとは、幼子のように語ってはいけないのか?
さらに目覚めた者、識者は言う。私はどこまでも身体であり、それ以外の何者でもない。そして魂とは、たんに身体における何者かをあらわす言葉にすぎない。
身体はひとつの大きな理性だ。ひとつの意味をもった複雑である。戦争であり、平和である。畜群であり牧者である。
あなたが「精神」と呼んでいるあなたの小さな理性も、あなたの身体の道具なのだ。わが兄弟よ。あなたの大きな理性の小さな道具であり玩具なのだ。(中略)
わが兄弟よ、あたなの思想と感情の背後には、強力な支配者、知られざる賢者がひかえている。それが本物の「おのれ」というのもなのだ。あなたの身体のなかに、かれは住んでいる。あなたの身体は、かれなのだ。
(『ツァラトゥストラはこう言った』岩波文庫 氷上英廣訳)