西野皓三│テューモス①

勇気の本質としての「テューモス」①
天才たちの「舌出し」は、人間の「こころ」と「身体」の微妙な関係を象徴しています。そこで、「こころ」と「身体」の関係について、人間は古来、どのように考えてきたのかについて見ましょう。
二章で「エートスとは身体知の表われだ」と述べました。
西野流の観点から見てエートスが興味深いのは、エートスが単なる「熱い感情」(パトス pathos)でもなく、「冷静な知性」(ディアノイア diania…感覚の助けを借りる推理的思考力)でもなく、それでいて合理と非合理を統合するような、身体に認められた能力とギリシア時代から見なされてきたからです。
アリストテレスの「ニコマコス倫理学」を訳した高田三郎氏は、「“エートス”はほとんど訳出不可能なギリシア的な概念に属している。“心術”“論理的心情”“論理性”“道義性”“人となり”“心ばせ”等々と訳すこともできるが、いずれも完全とは言いがたい」と述べています。
人間固有の身体知というものを解説しようとする時、エートスよりさらに示唆深い考察として思い浮かぶのは、著書『国家』の中でプラトンが人間の魂の中にある「勇気」の本質として採り上げている「テューモス(thymos)」です。
このテューモスは、しばしば「気概」との訳されます。
プラトンは「われわれは、思うに、この部分(テューモス)のゆえに一人ひとりの人間を勇気ある人と呼ぶことになるのだ」と言っています。人間は、テューモスゆえに人間なのだというのです。
彼は「人間の魂には欲望と理性の他に、テューモスがある」として、次のように説明しています。
「われわれがこう主張するのは、けっしていわれのないことではないというべきだろう…すなわち、これらは互いに異なった二つの別の要素があって、一方の、魂がそれによって理を知るところのものは、魂の中の<理知的部分>と呼ぶべきであり、他方、魂がそれによって恋し、飢え、渇き、その他もろもろの欲望を感じて興奮するところのものは、魂の中の非理知的な<欲望的部分>であり、さまざまの充足と快楽の親しい仲間であると呼ばれるのがふさわしい、と。(中略)こうした二つのはたらきが、魂の中に内在する二つの種類の要素として、われわれによって区別され確認されたことにしよう。そこでこんどはテューモス(気概)すなわち、われわれがそれによって憤慨するところのものが、いったいこれは第三の要素なのだろうか、それとも、先の二つのどちらかと同種族のものなのだろうか?」(『国家』藤沢令夫訳・岩波文庫)