古歩道│戦争の敵は脚気①

日露戦争での最大の敵は脚気だった。①
江戸で脚気が蔓延していたのは、社会システムに原因があった。幕府のお膝元である江戸は白米の一大消費地で、江戸在住の武士たちは俸給とは別に米を現物支給でもらっていた。「食い扶持」の扶持は、成人男性1日5合で1年分の米を支給を意味するらしく、当然、貧しい武士は「米」しか食べられない人も多かった。それで脚気が増えたわけだ。
ところが農村部では脚気の患者はほとんどいなかった。米は商品作物なので自分の家で食べるときは精米しないし、稗や粟、麦を加えた雑穀米が当たり前だった。それで当時の漢方医たちは「医食同源」、食事の改善で病気は治るという考え方から「麦飯」が有効という正しい回答をだしたのだ。実際、東京にお蕎麦屋さんが多いのは、蕎麦には小麦や米よりビタミンBが3倍多く含まれているからで、脚気によく効く食事療法として広まった名残という。
江戸時代に脚気の死亡が2万人近くいたと推定されるのは、米しか食べるものがない、脚気になる、麦飯に切り替える、治る、また米だけ食べる、を繰り返すなかで亡くなる人、乳幼児が脚気になると他の疾患を併発しやすくなること、高齢者の場合は心疾患で亡くなりやすかったからで、少なくとも、大の大人、成人男性が脚気で亡くなるケースはほとんどなかったようなのだ。
問題は明治期以降である。
確かに東京などの都市部の市民階層は、欧米化した食事の普及と副菜や副食が充実してきたおかげで脚気患者は減っていく。しかし、今度は農村部や農村出身者に脚気患者が急増する。海外からの安い輸入米が急増したおかげで、多少、貧しくとも麦飯や雑穀米ではなく「真っ白なお米がたらふく食べられる」ようになったのが理由であった。
とくに工場労働者、兵隊、炭鉱や建設現場などの肉体労働者は、お腹いっぱい白米を食べさせることが雇用条件になっていた。大量の白米だけを食べていれば、当然、脚気になる。それで、たくさんの人が脚気で倒れ、年間2万人以上が亡くなり続けた、江戸時代と違って、肉体的に頑強なはずの大人がバタバタと病気で亡くなり始めたのだ。