言霊百神|創造意志(子音)①

伊邪那岐神【言霊イ】
伊邪那美神【言霊ヰ】
この二神は『古事記』「序文」に「二霊群品の祖(おや)となれり」とあるところの造物主である。事物はすべて物夫れ自体すなわち独神で存したとて現象にはならぬ。太極の宇宙自体の始原感覚ウが剖判して両義ア、ワを生じ、両義が四象オエヲヱを生じ、その四象の知的内容として両儀を渡し結ぶ八卦が出揃った時、その両儀が物心、主客の対立として交流することによって、ここに初めて実相、現象、森羅万象が生まれる。
心があるから物があり、物があるから心がある。心がなければ物はなく、物がなければ心もない。唯物論と云い唯心論と云うが、それはいずれか一つを捨象し他を抽象したところの観念に過ぎない。物心は事の表裏両面である。「三界唯心、万法唯識」と説く宗教も、唯物史観も人間生命の知的活動をその片方のみの世界に閉じ込めて置こうとする無理強いの業(わざ)である。故に唯心論は信仰と云う心の型を必要とし、唯物論は政治的な強権の枠を必要とする。物心が交叉し交流して初めて実相が現前する。その交流の回路もしくは鍵(キー)とし八卦があり、八父韻があると考えてもよい。言霊イ、ヰはその八父韻の両端であり両極である。イ、ヰは生、胃、石、五、居、稲等の義として現れる。
イ、ヰはまた隠神(かくりがみ)であって、生命の創造的意欲すなわち意志である。伊邪那岐(神漏妓)のキは気であり木であり、精神であり、実相を発現し創造を行う生命意欲の主体である。伊邪那美(神漏美)のミは身であり、物体であり、実相を発現させる客体である。神漏岐、美のカムロは神室(かむろ)の義であって、この神室である宇宙自体の始原感覚ウが情としてはア、ワに、意としてはイ、ヰ(岐美)に剖れる。イザは誘(いざ)で、創造の意気込みの心であって男性と女性とが誘い合う心でもある。またイザは十六(いざ)であって、伊邪那岐神は天之御中主神から数えて第十六番目の神であり、伊邪那美神は第十七番目の神である。宇宙が剖判して第十六、十七番目の段階に到って初めて実相顕現のための創造意志が活動開始する。イザをまた去来とも書き、こころ(心)と訓(よ)ませる。ナギは凪であり、ナミは波でもある。

2024年4月
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