言霊百神│創造の序曲②

伊邪那岐命、伊邪那美命、二柱の神
前述の如く伊邪那岐神と云う場合は原理であり理体であり、伊邪那岐命と云う時はその原理の表現である言葉であり、同時にその原理の実現者、活動体としての人間である。神道に於ける神と命の関係は仏教に於ける仏と菩薩との関係と同じである。
人間が居なければ、人間でなければ言葉を発することも出来なければ、原理を自覚することも出来ない。人間は自己に契約された先天の全内容を確保し運転して神羅万象を認識し、みずから文明を創造する。これが命である。以下の伊邪那岐、美二命の「国生み、神生み」の業は超越した神や大自然の仕業ではなくして、人間自身の業を説いたものである。その人間は常に今、此処の「中今」を創造の拠点、時処位としている我々自体であり、その業とは実は我々が二六時中行いつつある生命の生活活動、文化活動そのものに他ならぬのである。繰り返して云うが、今、此処と云うことと、人間自体と云うことから遊離すると焦点が定まらなくなって『古事記』を釈くことが出来ない。主体と客体として対立する岐美二命の霊の火花が飛び交い結び付くその瞬間を自覚として捕らえたものが「今」である。伊邪那岐のイと伊邪那美のヰの、イとヰの間にひらめく生命の現れであるからイマと云う。

2024年7月
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