言霊百神│天津磐境③

斯の如く東洋の哲学宗教と西洋哲学とは方向性が相反するところのものである。前者は演繹の道であり、後者は帰納の努力である。カントは思惟の形式としての十二の範疇を立てて「認識の形式の根拠は純粋主観であって、それは先験的統覚」であるとまでは云って居り、その統覚とは判断認識の根拠であって、禅ではこれを「愚弟樹脂」の公案などで端的に示しているところの前述の「天之御柱(あめのみはしら)」あるいは「剣(つるぎ)」のことを云うのであるが、その統覚によって識別整理された先天の内容の様相が未解決のままである西洋哲学を以てしては、その先天自体の創造的活動である人類文明の諸相を普遍的総合的活動に処置することは不可能であり、殊に現象世界に於ける先天の学とも云うべき理論物理学に指導されている現代科学文明を指導操縦することはなおさら不可能である。「哲学の貧困」と云われ、哲学が科学に先行される原因は斯うしたところに存する。根底である先天が明らかでないから本来其処から展開する学問の全局が纏まらないのである。

2024年4月
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