岐美二神の創造はこのような始原純粋の状態に於ける先天の大行活動としての後天実相の発現である。だが然しこのときこうして発現した実相はなお依然として事実そのものであって、事実が事実であると判ってはいるが、それでいてそれを何とも表現しようのないところの、云わば悟りそのものである。強いてこれを表現しようとするとする時、庭前の樹木を指さし、或いは携えて三斤の麻を突き出して示したり、或いはウォルト・ホイットマンの詩に見るように具体的現象に就いてひたすら絶叫するより他に方法がない。この悟りの内容を禅では「涅槃妙心(ねはんみょうしん)」と云う。この時実相にもあれ空相にもあれその涅槃妙心の内容である認識の受け渡しを直截に自他の間に行なおうとすると釈迦と迦葉の間の「拈華微笑」の方法より他にない。
そこでこの時その実相実現としての純粋意識すなわち哲学語で云う純粋経験を如何に把握し、如何に自覚表現し、如何に共通普遍化するかと云うことが人類がその文明を構成し運営して行く上の基礎であり根底となる問題でなければならない事となる。この事に関して神道は他の哲学宗教が持ち合わせていない優秀な方便方法を持っている。岐美二神の創造は此の独特の方法を以てするものであり、且つその方法の原理を示すものである。