この様にして以上の神名に就いて様々に述べて来たが、『古事記』神名の解釈はその内容さへ承知して居れば、大和言葉の言霊の幸倍へによって如何様にも述べることが出来るのであるから、必ずしも以上の解釈のみにこだわることは要らない。また筆者も此の神名の解釈が絶対のものだとは思っていない。と云ってもすべて『古事記』の記事は全人類に共通にして普遍である宇宙の実相と空想の理(ことわり)を説いたものであるから、中身を承知の上で説くならば、説き方の深浅精疎の差があるだけで、誰が説いても大同小異のものである。
この時、浅は深に、疎は精に就いて学ぶべきであって、『古事記』を中に置いて議論の対立を見る如き事は凡そ無意味な業でなければならない。また『古事記』の正当な釈(と)き方は、「言の葉の誠の道」である神道の奥義であり、伝統であるから個人の勝手な解釈はまたすべて無意味な業に終る。そのためには何処までも正しい先蹤を重んじ、師を師とすることが大事である。無師独覚者を辟支仏(びゃくしぶつ)と云う。自己一個の見解を出ない人である。辟支仏には『古事記』を釈く資格がない。麻邇を説く資格がないから真仏ではないのである。
言霊百神│父韻の所在④
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