言霊百神│黄泉国㉖

以上の様な思惟の運用を宗教上の魂の遍歴修行の過程として考えることもまた一応意義のある事である。十拳剣を後手に振ることはすなわち哲学的な否定すなわち禅の所謂「無字」の拈提でもあって、儒教、キリスト教にあってはこの事を反省と云い、懺悔と云い、神道では鎮魂と云う。その反省懺悔を執拗に徹底して間断なく行することによって、渾沌たる業縁、輪廻、煩悩を帰納整理し、そこから飛躍して最後の最初の一に疑いなく帰り得た時が禅で云えば「公案現成」「見性成仏」、念仏で云えば「信心決定」、キリスト教で云えば「聖潔(きよめ)」の時である。この一に帰る道を称して禅では「退歩の学」と云って、進歩の学とは云わない。退歩の学とはキリスト教の「汝改まりて幼児の如くなれ」と云うことである。まさに「十九八七六五四三二一」と十拳剣を後手に振きつつ逃げ来ます道である。此の時逃げ還った元の一は仏教にあっては空(零)である。その一を権力を持った質点と考えたのが戦前の日本の天皇中心思想であった。その一が機能と構造を完備した人性の中枢布斗麻邇であるのが神道である。