五十音言霊の歴史①

 言霊について今迄色々説明をして来ました。言霊の学問が世界の屋根といわれる高原地帯が発祥の地だとか、聖(霊知り)の集団が推定八千年前頃この日本に渡って来て、その原理に基づいて日本語を作ったとか…現代人が余り耳にしない事のお話でありました。これまでお読み下さった読者は一様に不審に思われるのではないでしょうか。それは「それ程確信を以って著者が言霊の存在と意義を主張するにしては、日本の社会に余り知れ渡っていないのはどうした訳なのか」の疑問でありましょう。
 それは当然の疑問でしょう。私も、15年程前、初めて言霊の学問に出会った時、日本語の起源である言霊の学問の奥深さと合理的なことに驚くと同時に、その疑問を感じたものでした。
 或る時代に盛んであったものが、時と経過と共に人々から忘れ去られて行く、ということは勿論珍しいことではありません。一世を風靡した習俗や習慣も時代と共に消えてなくなって行くことはざらにあります。けれど私達日本人が数千年の間日常使っている自分たちの言葉の起源となる法則が、唯「コトタマ」という言葉だけ残して世の中から埋もれてしまう事なんてあるのだろうか。それとも国家民族にとって一番大切なもの…その民族の言葉の起源法則が人々の関心を失ってしまうには、何か事情があるのだろうか。私はその当時、そう考えたこともありました。
 小笠原孝次氏の古事記・日本書記の講義は、歴史学・東洋哲学・西洋哲学・宗教学・心理学・言語学・文学等々にわたる広い知識に裏付けられた厳格であると共に明快なものでありました。
 小笠原孝次氏の遺書であります「古事記解義、言霊百神」の一番初めの章を数行御紹介すると以下のようであります。
 天地のはじめの時
 天地は今・此処で絶えず開闢しつつある。古事記が説く「天地のはじめ」とは天文学や生物学や歴史の上の観念で取り扱うところの事物の初めを言っているのではない。古事記神代巻は必ずしも過ぎ去った大昔の事を取り扱っているわけではない。今が、そして此処が、すなわちnow-hereが恒常に天地の初めの時であり場所である。すなわち天地は実際に今、此処で絶えず剖判し開闢しつつある。その今を永遠の今と言う。この事を禅では「一念普観無量劫、無量劫事即如今」(無門関)などと言う。「永劫の相」(スピノザ)とも言う。そしてその場所が常に宇宙の中心である。この今、此処を「中今」(続日本紀)と言う。
 明治生れの師の文章は時に現代人にとって難解なところもありましたが、古事記の神代の巻の最初の文章である「天地の初発の時」を計り知れない程大昔の宇宙の始まりのことではなく、心の宇宙の内部に人間の思考が始まろうとする一瞬の時即ち、「今」なのであることを発見したことは、従来の古事記の解釈に百八十度の転換をもたらす事となりました。
 そこで当然、古事記の神代の巻の文章は、大昔宇宙や太陽や地球が始まった事を言っているのではなく、心の宇宙の内部に人間の思いや考えが始まり、次第に頭の中で練られ、一つのまとまった言葉として現われて来る、人間の心の構造を示している、ということになります。しかもその事情を神話の形式で表しているのです。何故そんな回りくどい神話形式をとって、直接ズバリ心の構造をそのまま書かなかったのでしょうか。そんな事をする必要が何故あったのでしょうか。
「そんな、こんな」を頭に入れながら古事記を読んで行きますと、日本の古代の歴史の経緯やコトタマの歴史、それに古代の私達日本人が到達していた心の知識の奥深さ等々がはっきりと窺い知ることが出来て来ました。 

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