二つの反省の方法、自力と他力

 この精神内のUターンすなわち反省に、おおむね二つの方法が考えられます。宗教でいうところの自力と他力です。簡単に紹介しましょう。
その1
 いろいろな心的現象を生起させる本源の宇宙が、すなわち本然の自己が、必ず現前することを確信し期待しながら、いままで自己自身だと思いこみ生きるよすがとしてきており、判断の基準ともなっていた経験・知識・信条・理想等々を、反省のうちに否定していく道であります。「庇を貸して母屋を取られる」という諺があります。生まれ長じて知識・教養を〝身につけてきた〟はずであるのに、いつのまにかその知識・教養が自分という母屋を乗っ取ったのですから、それをことあるごとにひとつひとつ自分自身に言い聞かせて再び母屋から庇に出て行ってもらう作業です。その知識・信条の内容がどのように立派なもの、有益なものであろうとも、どんなに生命をかけて信じているものであっても、借りているもの・本来の真白な自分でないことに違いありません。それを庇にまで帰ってもらうのです。人間が一度経験したこと、手にした知識は、どんなに否定しても決して全く忘れ去り、関係のないものになることはできません。けれどもそれらの経験・知識に自分自身が翻弄されてきたいままでのことを反省し、実は自分が時所に応じてそれらの経験・知識を反対に使いこなすのが自由の態度なのです。
 反省し否定するといっても、その中心に本来本然の自己である宇宙の存在を確信しなければなりません。この確信のない単なる経験・知識・信条等の否定は、当然のことながらニヒリズムに陥ってしまう危険をはらんでいます。いまは現前していない本然の自己である宇宙の自覚を確信するのですから、この態度・心構えは信仰ということができましょう。仏教の一つの宗派である禅などはこの方法の典型的なものでありましょう。禅宗では借り物である知識・信条等を否定していく働きを無といい、最後に自覚する本然の宇宙を空と呼びます。心中にこの経験・知識を否定しても、その経験・知識はまるで生きもののように自己主張し反撃してきます。それでも遂に否定し否定し盡す時、忽然として、自己の本体が実は広い広い唯一つの宇宙そのものであることが自覚されます。それまでの自分という個人が勝手に見ていると思っていたのが、実は宇宙そのものがこの眼を通して、この手に依って、この耳を通じて、見、触れ、聞いていたのであることが、はっきりと自覚されるのです。この、見られる光・宇宙に充満している光、また、感じられる無限のあたたかさ、その世界が言霊アなのです。この宇宙が、溢れ出る感情の世界であり、芸術・宗教のよって興る世界であることも明らかに看取されます。この光と熱の充満した宇宙が〝天地の初発〟なのであり、仏教で無礙光といわれ、キリスト教で「光に歩めよ」と称えられる宇宙のことであることがおのずと了解されます。

その2
 第一の道が、自分の本然の姿の実在を信じて、その自覚を妨げている色眼鏡である自我の経験・知識等を心中に否定していくのに対し、第二の道は、自己とはあくまで起こっては消え現われては去って行く心的現象の自己であることに心に反省し、そのささやかではかない自分、しかもそのはかなさゆえにかえって威張りちらして勝手に生きているあさはかな自分を、それにもかかわらず安穏に生かしてくれる神または仏等の慈悲・愛に感謝しながら生きようとする努力の道であります。この方法の顕著な例は仏教では「南無阿弥陀仏」の道があり、もう一つはキリスト教のイエスへの帰依の信仰であります。浄土真宗の悪人正機、すなわち「善人なほもて往生をとぐまして悪人をや」(歎異鈔)とか聖書にある「幸福なるかな心貧しきもの、天国はその人のものなり」(マタイ伝)等の信条はこの道の要諦であり、これを他力の道といいます。これに反して先に挙げた禅宗等は自力の道ということができます。ささやかで・さかしき心の自分を日々刻々生かし続けて下さる神仏に感謝し盡す時、自分を生かして下さる大きな力すなわち愛と慈悲に抱擁されている自分を発見します。キリスト教でいわゆる〝罪の子〟がこの瞬間から〝光の子〟あるいは〝神の子〟に変わります。この、すべてを抱擁し生かしている愛と光の世界-これが言霊アの世界なのであります。自己の本然の姿が宇宙それ自体と信じてそれの自覚を求める自力の第一の道と、現象界の中にはかなく現われては消える罪と業の深い自己をみつめながら、それを生かして下さる愛と慈悲の神仏の大きな力の恩恵に感謝して神の子の自覚に導かれる他力の第二の道は、言霊アの自覚において同じ終着点に交わって一つの境地となります。言霊アの自覚は人間の魂を束縛している原因が除かれた状態に立つことであって、自由の境地に遊ぶことができます。ピカソの抽象画をご覧下さい。その中の人間は眼が横についていたり後ろについていたり頭の上に小鳥がとまっていたりして、まさに子供の落書をしているようではありませんか、そうです。ピカソは実際に子供のごとく絵の中で遊んだのです。遊ぶことのできる数少い画家の一人であったということができるでしょう。逆にピカソの具象画を見ましょう。彼はその画の中で鋭くきびしく美を追及しています。絵を通して魂の自由を追及したのです。追及の結果美本来の境地に到達することができました。真善美といわれるその美の世界に没入することのできたピカソは、その世界の中で遊んだ(〝ア〟そんだ)のでした。それが彼の抽象画です。落書に理屈をつけたら野暮というものです。
 右のように魂の自由を得て、その広々とした境地に一生満足して遊んでいる人がいます。その人は、この世の中の出来事に巻き込まれて、朝から晩まで齷齪と働いている人を見ると馬鹿馬鹿しく思われるでしょう。しかし言霊の自覚の道はこの段階がまさに第一歩であるに過ぎません。言霊の道はこれからが正念場なのです。伊勢神宮の本殿中央の真柱が五尺のうちの下二尺が地表下に隠されていることの真の意味は、これ以後の勉強によって解き明かされてくることになります。

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