父韻キ・ミ
先に述べましたように自己の本性を見ようとしてそれまで自我だと思いこんできたその構成要素の知識・習性・信条を否定し続けます。けれども小さい時から身につけた癖とか信念とかはなかなか強情で、「お前は後天的に仕入れた借り物なんだから呼ばない限り出て来るな」と幾度我が身に言い聞かせても、ある状況では必ず姿を現わし否定の力を押し破ってしまいます。否定しても否定してもその癖が出る状態をもう一歩踏み込んで反省する時、否定の力を押しのけて経験的に身につけた癖・信条等と結び着き、またはその知識・信条等を心の宇宙の中から自分の方へ掻き入れようとするいわばデモーニッシュな力の存在に気付くのです。これが創造意志の力です。この?き操ろうとする意志の働き、これが父韻キであります。八つの父韻は実は互いに夫婦の性質を持つ二つの韻四組の合計であることは先の父韻の項でお話しました。父韻キが心の宇宙からその中にあるものを掻き操る繰る韻であるのに対し、父韻ミは心の宇宙の中のあるものに真直ぐに結び着く働きの韻です。父韻キとミは互に作用と反作用の関係の二つの韻です。
父韻チ・イ
たびたび申し上げていることですが、父韻とは心の現象が起こる原動力である意志の働き方のことで、当然、心の現象の表面には現われることがありません。その現われないところのものの説明でありますので、いかに説明しようとも比喩であり、ヒントであることをご承知のうえお考え下さい。人はある重大な岐路の当面しますと、こうしようかそれともああしようかといろいろ迷います。この迷うということは、いままでに経験し勉強してきて知っているAの方法をとろうかそれともBの道を行こうかの選択の迷いです。迷いに迷った末に「どう考えてもうまくいきそうとも思えない。下手な考え休むに似たり、こうなったらこざかしい考えは止めて、その場になったら全身全霊で当たってくだけよう」と決心します。この、自分の過去の経験や知識に頼るだけでなく、自分の全身全霊を投入してことを起こす、すなわち心の宇宙全体がその時その場で全体を現象化する瞬間の意志の韻-これが父韻チであります。剣道でいえば、大上段の構えから全身を相手にぶっつけるように振りおろす働きです。「トーッ」とか「ターッ」とかの掛け声が当然かかることでしょう。(タチツテト)
いまここに宇宙全体である全身全霊が現象化した次の瞬間、その働きは慣性的な持続的なものに変わります。この持続性の意志の働きの韻が父韻イであります。
父韻シ・リ
本来の自己を求めて独り静かに坐っていますと心の中は静まるどころかかえっていろいろな雑念が湧いてきます。これではいけないと気を取り直して精神を集中させようと努力するのですが、いつのまにか何かの記憶とか心配事などが現われ、次から次へとそれが発展し心中に拡がり、ついには心全体を占領してしまう-といったことがよく起こります。この、心の中をぐるぐる駈け回りまさに螺旋状に心全体に発展して行く働きの原動力になる意志の韻、これが父韻リであります。螺旋状という平面的に聞こえますので、むしろ段々に振幅を増していく螺旋階段状に心の立体宇宙全体に広がって行く働きといった方が適当かもしれません。作用あれば反作用あり、反対に螺旋状に求心的に中心に向かって静まる意志の働きの韻が父韻シであります。
父韻ヒ・ニ
心の中に何かが起こり進展している。けれどそれが何事なのであるか、もやもやしていて分からない。こうゆうことはよくあることです。このもやもやの気持ちが起こるのは一つの事態が心の中で充分に進展し煮つまる根本意志の韻が父韻ニであります。煮つまってくると表面意識的に〝はっ〟とその起こってきた事態は何であるかに気付きます。気付くとは言葉で表現することができたことでもあります。この言葉として意識表面に完成する原動力となる意志の働きが父韻ヒであります。
以上、チイキミシリヒニの八父韻を自己の心の中に確認する方法のヒントをあ話しました。
もちろんこの八つの父韻は現象が生まれる以前の、その現象を生む原動力である先天的原律でありますのでそれ自体は決して姿を現わすことはありません。それゆえどのように説明を盡くしましても結局はそれぞれの人が自らの心の中で確認しようとせぬ限りお分かり頂けないものであります。しかし自己の心で一度確認してしまえば全く真理であって、この父韻の活動こそ宇宙万物を創造させる生命の根源であることがおのずから知られるのであります。中国では古来易経がこの八つの原律を概念的に捉えて易の八封で示し、それはキリスト教においては「天にまします父なる神よ、御名をあがめさせ給え」と二千年渇仰されてきたものであり、仏教で〝八正道〟の根本義として表現されてきたものでもあるのです。