気功の方法…意念の鍛錬③

②…意守するための用意
 用意の面では、古代には想像を用いる方法もあった。それは、ある幻想、幻覚を作り出し、意識を集中させ、あらかじめ期待した効果を収めようとするものである。この方法には、在想と観想の二種類がある。
在想…在想の意義については、唐代の司馬承禎が『天隠子』の中で、専門に説明している。「いわゆる存とは自己の神を貯えることであり、想とは注意力を自身に集中させることである。目を閉じるとは自己の目を見ることであり、心を収めるとは自分の心をみることである。心と目はともに自己の身体を離れず、自己の神を傷つけない。このようにすれば、在想が次第に深まっていく」とある。これは、在想の初歩的な段階といえる。つまり目を閉じ自己の内部を視る。しかも視るものはすべて想像したものである。次にどのように存想するかは、『天隠子』の中では言及していない。ただ、『後序口訣』の中で「自身の首から足へ、また、足から丹田に至り、背骨を上がり、泥丸(上丹田)に入り、あたかも雲が真っ直ぐ泥丸を貫くように在想する」とあるにすぎない。在想は注意力を体内に集中するほか、内外を結合させてもよい。在想に関する資料は、『諸病源候論』の中にもある。これには、「心気は赤く、肝気は青く、肺気は白く、脾気は黄色く、腎気は黒くと存念すると、出て来て全身をめぐる」とある。また『逍遙子導引訣』の中では、「口を閉じ息を封じて、真気が尾骨から背骨を上がり、泥丸を透ると存想すれば、その邪気を駆逐できる」と記されている。
観想…観想の方法は、『備急千金方』の中に次のように描写されている。「ゆっくり心を定めて、禅観の方法を行う。この方法は目を閉じ、意識を集中し、空中の太和元気があたかも紫雲におおわれ、五色がはっきり分かれて、下りおりて頭髪際に入り、次第に頭頂に入っていくと想像する。雨が晴れて雲が山に入るように、皮膚を透し筋肉に入り、骨や脳に至り、ゆっくりと下って腹中に入り、四肢五臓すべてその潤いを受ける。あたかも水が地に滲み入るようにつき透れば、腹中に水がサラサラ流れる音が感じられ、存意を専らにし、ほかのことは考えない。間もなく、元気が気海に達するのを感じ、間もなく、自ら湧泉に達し、身体が震えるのを覚える。両脚をちぢめてベッドに坐らせると、ベッドがきしむ音がする。これを一通という。一通二通と繰り返し、一日に三通から五通行えば、身体は快く、顔の色ツヤが良くなり、毛髪もしっとりし、耳目ははっきりとし、ものを食べても美味しく感じ、気力も充実してきて、あらゆる病気が治ってしまう」。この一連の複雑な幻想法、つまり、孫氏の述べるところの禅観法は、仏教からきている。仏教は唐代でいくつかの宗派に分かれ、その一つに密教がある。密教の源泉はインド仏教の中の密教であるが、中国には唐代に伝わっただけで衰退している。日本に伝わったものは東密と俗称され、これが日本仏教の真言宗であり、チベットに伝来したものを蔵密という。この密教は真言の呪文(語密)を声をあげて読み、印を結び(身密) 心で観相(意密)する。この三密を同時に相応させれば即身成仏できると考えている。観相法は、密教の観相からきたものである。孫氏の禅観はおそらく密教の『宝瓶気』から変化してきたものかもしれない。宝瓶気の方法は『気功療法実践』の丹田住気法と似ているので、参考にしてほしい。
 以上の資料から、存想と観想の異なるところは「相」と「観」である。存想は幻想のようなものであり、観相は幻視のようなものである。しかし、雑念を取り除くだけならば、もっと簡単な方法を用いてもよい。たとえば『保生秘要』には「心を一つにおさめ、雑念を抑えるべきである」とある。これは古代気功では、「存神」という。明代の高攀龍『高子遺言』の「全精神を収めて一か所だけに集中する」とか、『摂生三要』の「一竅を大まかに意守することが心を平静な状態に戻すことができる」なども、存神の意味合いである。このほか、陳櫻寧は『黄庭経講義」の中で「存神と存想とは異なる、…存神とは思うところがなく、ただ神光を一点に集中して漏らさないのをいう。存神は身中の一か所に集中するとは限らないし、また身体の内に集中するとも限らない。存神を身体外のものに集中するときもある」と記している。身体外とは、つまり外景(風景)を採用することであり、臨床では現在なお常用されている。
 意により気を導くことも用意の一種である。たとえば、用意によって体内の暖流を身体の前後の任脈・督脈に沿って巡らせる。これを大周天、小周天、河車搬運という。また、用意によって気を導いて疾病を攻める方法もある。

2024年4月
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