気の周流│大・小周天.2

大・小周天功法.2
(3)第3段階 内丹術の興隆
内丹という言い方を、他に先駆けて言い出したものに、隋代の蘇元朗がいる。蘇元朗は羅浮山(広東省)の青霞谷に居を構えて、青霞子と称していた。『図書集成』に『羅浮山志』から引用した次の一節がある。
「羅浮山は青霞谷に住み、大丹を修練していた。朱と名のる真人が芝を服して仙人となったと、弟子たちが旅人から聞き及んだ。そこで、霊芝についてあれこれと議論となった。春は青芝、夏は赤芝、秋は白芝、冬は黒芝がある。ただ黄芝だけは高い山々に産出して、そのあまりの珍しさゆえに手に入れることができない。この議論を耳にした元朗は、笑いながら答えた。霊芝はおまえたちの八景の中にあるのだ。そうしてそれを黄房(丹田)に求めようとしないのか。昔から言い伝えられているではないか、天地のどこにも霊草なんてものはない。ただ一心に平静を保つことによって生み出される宝をこそ霊草というのだ、と。そこで、『旨道篇』なる一書を著してこの論を示した」。
これにより、内丹が道教徒の中に知れ渡ることとなった。唐代の『通幽訣』には「気で内部を平静に落ち着かせるものを内丹という。薬で形を固めるものを外丹という」との記述をみることができる。隋唐時代をとってみると、この時代はまだ内丹術の萌芽期であったというべきであって、その方法は簡単で、胎息を基礎として、導引を加えたものにすぎなかった。唐代かあるいは宋代に編まれたと思われる『上洞心丹訣』に記載されているものによると、胎息を行って気をいきわたらせた後に、何をすべきかを次のように述べている。「さらに精気を尾閭、夾脊から脳に運び入れる。尾閭は脊椎の第19節に、夾脊は第12節にある。補脳法はまず仰臥する。第3節の大椎穴をしっかり閉じて気を通さない。その前に先ず夾脊穴をしっかり閉じて気を通過させない。しかがって、大椎を上関、夾脊を中関という。それから、ゆっくりと精気を脳に満たしていくと、丹は自ら玄膺(咽の中央)より下りる。その味は甘く、香気に満ちている。こうして内丹は完成するに至るのだ」。
外丹を主眼に論じている『周易参同契』は、西晋東晋時代および南北朝時代には少なくとも重要視されることがなかったが、この時期になって内丹術の指導書として崇められ始めるようになった。
大・小周天内丹術の基礎をうち固めた人物は、北宋の張伯端である。宋代の神宗の時代に彼が書いた『梧真篇』は、後世の丹術家によって『参同契』とともに並び称されて尊ばれた。張伯端本人は道教徒というわけではなく、道術を追求するのをたしなんだ儒者の1人であった。さらに、彼は仏教禅宗の影響も受けていたので、その著作は、3つの宗教が渾然一体となった傾向を帯びたものとなった。後に張伯端は、道教南宗の5祖の首として尊敬され、紫陽真人と呼ばれるようになった。また、彼が天台の人であったため南宗は天台宗ともよばれた。南宗の創立者は白玉蟾、同様に道教北宗には、王喆がいる。
南宗、北宗両派の内丹術の功夫上の違いは、性功から着手するか、命功から着手するかにある。性とは神であり、命とは精と気の事である。つまり南宗は命功を主どる、すなわち下丹田の精気から着手し、北宗は性功を主どる、すなわち上丹田の元神から着手するものと、考えられている。

2024年4月
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