釈迦が日本に留学したのは伏羲来朝の暫く後、老子、孔子と略同時代で、葺不合朝七十代神心伝物部建天皇(ふきあえずちょうななじゅうだいかんこころつとふものべたてすめらみこと)の御宇と伝えられている。釈迦も伏羲と同じく神道の原理を教伝を受けた。仏説に於いてこの『易』の太極構造に当るものは『法華経』の多宝仏塔である。多宝仏は神道の布斗麻邇の神である伊邪那岐大神に当る。法華経に於ける釈迦牟尼仏の説法は多宝仏塔と多宝仏の出現を待って、これと同座の下に初めて成立する。多宝仏はみずからの色身である多宝仏塔の原理原律に鑑みて仏陀の思惟の内容である仏所護念(『一切諸仏仏所護念経』)を解説し、これに至る修行法を指導する釈迦の護法を批判し採点して、それが誤りなきものである時、「善哉(よきかな)」と云う賛辞を以てこれを承認する任務を持っている。斯の如き批判法、検査法を神道では一般に沙庭(審神)と云う。