宇宙の森羅万象を色相として云うならば眼に焼き付くような事実そのものである。事実は実在と識の産霊(むすび)によって生ずる。一つの事実は誰にとっても同一の事実でなければならないのだが、然し多趣多様な世界の事実はその要素が錯雑していて何と何とが産霊(むす)ばれ組合わされたものであるか識別が困難であり、事物の相互関係の判断から事実を決定しようとすると迷路に陥り易い。また魂の浄化を経ず自由の立場に立っていない人は夫々自己の識見、偏見に拘泥して、事実を事実として有りの儘を認識する事に様々な支障が起こる。
故に『法華経』では「唯、仏と仏とのみ、乃ち能く諸法の実相を究め尽くせばなり。」(「方便品」)と説いて、真実事実の把握はむずかしいものだと教えている。然しそうだと云って何時までも仏陀のみが判り余人には関係のないむずかしい事を書いてある経文そのものを勿体振って担ぎ廻っていたところで『法華経』の本当の解決にはならないし、もとより、人類文明の解決にはならない。