禅では前述の如く斯くの如き厳然たる実相を挙示して「麻三斤」と云い、これを指して「庭前の栢樹子」と云う。先天から生まれた神の子はそのまま神であり、仏の子すなわち仏である。神道ではこの神の子、仏の子を命(尊)と云う。禅は行的に最も神道に近いものと云える。神道の命題は禅の公案を釈くと同じ方法を以て釈いて行く。「神代のこと幽微、理に非ざれば通ぜず。」(『日本書紀』「跋文」清原国賢)と云う。斯くて生み出された実相自体から逆に改めてその本源を省みる時、それを構成する隠れた要素として、それが構成された経過の中に、先天としての主体、客体と生命の知慧の光の律が存在するのである。